〈本文理解〉

出典は猪木武徳『自由の条件~スミス・トクヴィル・福沢諭吉の思想的系譜』。本文を形式段落に沿って要点を抽出する(引用部は独立した形式段落としない)。

①~⑧段落。1831年春から10ヶ月、ジャクソニアン・デモクラシー下の米国を旅したトクヴィルは、帰国後『アメリカのデモクラシー』を著した。そこで、政治経済体制の違いによって、人間の存在そのものと密接に関わる労働の意味や目的、形態が異なっていること点を明らかにした意義は大きい。(以上①段落)

彼が注目したのは、奴隷の少ない州ほど、人口と富が増大しているという点であった。北部の農場主は自分で耕すか有償の労働力を調達しなければならなかった一方、南部では無償の奴隷労働力が調達できた。にもかかわらず「なぜ北部州の方が経済的に豊かなのか」(傍線部(1))。トクヴィルはこの問いに、自由労働なのか奴隷労働なのかに注目しつつ、鋭い洞察をもって答えている。比較の例として挙げられたのは、オハイオ州(北部)とケンタッキー州(南部)だ。(以上②段落)

まず、オハイオ州はケンタッキー州よりも12年遅れて誕生したが、1830年時点で人口で25万人以上多くなっている(③④)。また、両州はオハイオ川を挟み隣接していて自然環境も似通っている(⑤)。

両州の相違は、ケンタッキー州が奴隷を許容し、オハイオ州はこれをすべて拒否したというただ一点にのみある(⑥)。多くの条件がコントロールされた、まさに経済体制を比較するための絶好のサンプルがここにあるとトクヴィルは見ているのだ(⑦)。
⑨~⑫段落。(直前の引用を承け)「彼は働いているのである」というトクヴィルの言葉は、自由な労働と活き活きとした人間の感情を捉えている(⑨)。奴隷州と自由州の活力の差(⑩)。

ケンタッキー州では耕作に当たる人々には熱意と知識がないのだ。ケンタッキーでは主人たちに賃金を払う義務はないが、奴隷の労働からはほとんど成果が引き出せない。熱意と知識を持つ人々はオハイオに渡る。オハイオ州では、自由な労働者に金を与えれば、それは生産物の値段に「利息つきで戻ってくる」。なぜなら、自由な労働者は、奴隷より仕事が早く、役に立たねば人に買われないからである。(以上⑪段落)

(引用部;主人が奴隷保持のためにする金の消費は少しずつだが、実際には自由な人間を雇うより高くつき、生産性が低い)。「奴隷の仕事が結局は高くつく」(傍線部(2))ことは、アダム・スミスも指摘している。自由な労働と奴隷労働は、経済社会の姿と個々のメンタリティーに大きな違いをもたらすという点を、トクヴィルも鋭く見抜いていたのだ。この洞察こそは、20世紀の社会主義国家が経験した事実を予言するかの如き考察となっている。(以上⑫段落)

⑬段落。自由経済と計画経済を対比させた「比較体制論」には、どのような「現代的な意味」(傍線部(3))があるだろうか。比較体制論には、異なった体制が長期的な競争をすれば、どちらが、いかなる理由で生き残れるかという問題意識がベースにあった。そして「価格」に含まれる情報と市場の需給調整機能を無視した社会主義計画経済は、自由競争の経済システムの前にあえなく敗退した。

しかしその後、現代中国のような、経済は市場システム、政治は一党独裁という自由と専制の入り交じった「混合体制」が出現したため、その体制の持続可能性と長期的なパフォーマンスの優劣が改めて問われるようになった。比較体制論は議論の枠組みを変え、装いを改めて復活したのである。

 

〈設問解説〉
問一 (漢字の読み) 

(a)疎ら/まばら (b)瀟洒/しょうしゃ (c)窺わせる/うかがわせる (d)滲み/にじみ (e)閑人/かんじん(ひまじん)

 

問二 傍線部(1)「なぜ北部州の方が経済的に豊かなのか」という問いに答えるため、トクヴィルはオハイオ州とケンタッキー州とで比較を行っている。トクヴィルがこの二つの州で比較を行ったことが妥当だといえる理由を、本文に沿って100字以内で説明しなさい。

 

理由説明問題。それは両州が、北部と南部の特徴を代表していて、その「経済性」を比べる上で適当だから、となるだろう。では、どういう点で?

こういう風に整理してみると、まず⑦段落の「多くの条件がコントロールされた、まさに経済体制を比較するための絶好のサンプルがここにある」に着眼できる。「ここ」とはオハイオ州とケンタッキー州の両州を指し、「比較」されるのは北部州(→自由労働)と南部州(→奴隷労働)である。これが直接理由を構成する。

「多くの条件がコントロールされた」が捉えづらいが、これは⑥段落の「二つの州の相違は、ケンタッキー州が奴隷を許容し、オハイオ州はこれをすべて拒否したというただ一点にのみある」と併せて考えればよい。つまり、地理的隣接性や成立時期の近さなど両州の他の相違は顕著なものでなく、奴隷制の賛否のみに焦点をしぼれる点で、南北の経済体制(奴隷労働か自由労働か)を比較するサンプルに両州はうってつけだ、ということになる。

 

<GV解答例>
地理的に隣接し成立期も近いなど他の条件を捨象できる一方、顕著な相違として奴隷制の賛否のみに照準をしぼれる点で、両州は奴隷労働による南部と自由労働による北部の経済体制を比較する絶好の指標だといえるから。(100字)

 

<参考 S台解答例>
奴隷を許容したか否かという一点を除いて多くの条件がコントロールされたケンタッキー州とオハイオ州は、北部州の自由労働と南部州の奴隷労働との相違に注目した経済体制の比較を行う絶好のサンプルであったから。(99字)

 

<参考 K塾解答例>
歴史や自然など共通する条件を持ち、川を挟んで隣接する二つの州を比較することで、人工の増加や経済発展を促す要因が、奴隷労働か自由な労働かという南北の経済体制の違いに存することを視覚的にも確認できるから。(100字)

 

問三 傍線部(2)「奴隷の仕事が結局は高くつく」とあるが、なぜそう言えるのか。自由な労働者のケースと対比しながら、150字以内で説明しなさい。

 

理由説明問題。ご丁寧に「自由な労働者のケースと対比しながら」とある。構文は「自由な労働者がAなのに対して、奴隷はBだから(→高くつく)」となる。AとBの所に対比的な要素を配する。
まず⑫段落「自由な労働と奴隷労働は、経済社会の姿と個々の労働者のメンタリティーにかくも大きな違いをもたらす」という内容に着目した上で、次のように対比させる。
A「賃金あり→熱意と知識あり→生産性高い」
B「賃金なし→熱意と知識なし→生産性低い」
これを軸に⑪段落を参照して具体化する。
ただBの要素だけでは、いくら「生産性が低い」といっても「賃金の支払いをしなくてよい」わけだから、まだAに比べて「高くつく」とまでは言えない。そこで傍線部(2)の直前の引用部「奴隷は教育を受け、食料をあてがわれ…奴隷の保持のためにする金の消費は少しずつ、細々と続き」に着目し、先ほどのBと組み合わせて「高くつく」に着地させる。

 

<GV解答例>
自由な労働者は、よりよい対価を得るために効率的で質の良い生産に熱意と知識を注ぐので、支払われた賃金以上の対価を生む可能性が高いのに対し、賃金を得ることのできない奴隷は、仕事への熱意と知識を持たず生産性が低くなる上に、奴隷労働を確保し仕事を成立させるために奴隷に対する一定の支給を続ける必要があるから。(150字)

 

<参考 S台解答例>
自由な労働と奴隷労働は、経済社会の姿と個々の労働者のメンタリティーに大きな違いをもたらし、自由な労働者は、熱意と知識を持って支払った賃金以上の生産物で利益を生み出し生産性が高いが、奴隷の仕事は、労働者である奴隷に熱意と知識がなく、賃金の支払い義務はなくとも奴隷の保持には費用がかかり生産性が低いから。(150字)

 

<参考 K塾解答例>
自由な労働者は、賃金の支払いを必要とするが、活気に満ちた精神とともに身に備えた知識や技術を自発的に行使して働くため、賃金以上の生産物を生み出すことができるのに対し、奴隷の仕事は、賃金を支払わずにその維持費だけで済むが、強制労働のため自発性が発揮されず、自由な労働者よりも低い生産性にとどまるから。(148字)

 

問四 傍線部(3)「現代的な意味」の内容を、本文中の言葉を用いて70字以内でまとめなさい。

 

内容説明問題。「比較体制論」の現代における射程を問うている。まず、従来の比較体制論は、ソ連誕生以来、自由経済と計画経済という異なった体制が長期的な競争をすれば、どちらが、いかなる理由で生き残れるかを分析してきた。その帰結は周知の通り。

そして、現代中国のような、経済は市場システム、政治は一党独裁という、自由と専制の「混合体制」の出現で、その体制の持続可能性と長期的なパフォーマンスの優劣が改めて問われるようになった。これが比較体制論の現代的な意味。ただ、本文末尾にも「比較体制論は議論の枠組みを変え」とあるが、「混合体制」といったい何を比較するのか?
それは計画経済体制との競争を生き残った先進諸国の自由経済体制しかないはずだ。これを改めて「混合体制」と比較した場合、後者が政治における専制と経済における自由(市場システム)の「混合」を志向するならば、前者は政治も経済も「混じることなく」自由を志向する、と導くことができる。解答には、「中国」はあくまで「混合体制」の幕開けを高らかに告げる事例だから、一般化した形で示す。

 

<GV解答例>
従来の政治・経済両面における自由な体制と専制政治下での市場システムという混合体制のいずれが、持続可能性と長期的生産性で優位かを予測すること。(70字)

 

<参考 S台解答例>
経済は市場システム、政治は独裁という、自由と専制の混合した現代の体制の持続可能性と長期的パフォーマンスの優劣を、比較体制論が問うということ。(70字)

 

<参考 K塾解答例>
自由経済と計画経済の長短を分析した「比較体制論」は、自由経済と専制政治からなる現代中国の混合体制を改めて論じるための参照枠になるという意味。(70字)

 

(余談) こうした「中国的」システムは、何も権力を握る側だけに志向されるわけではない。「強い」国家が経済的な豊かさや自尊心のリソースとなるなら、システムの「内部」においては、それを歓迎する向きもあるだろう。そして、「中国的」システムとの競合の中で、まどろっこしい「民主的」システムは正念場に立たされる。もちろん、これは他所の国の、未来のお話などではない。

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