〈本文理解〉   
出典は入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか?哲学随想』

①~④段落(第一パート)。「私たち」というあり方には、それ以外の他のあり方がないことに驚愕したことはないだろうか。あるいは、ことばを使って思考し話をすることには、その外部がありえないことに、呆然としたことがないだろうか。(①段落)

 

疑問に思われるかもしれない。「私たち」というあり方は、「私たち」でない者たちを排除して、自分たちだけで閉じる閉鎖的なあり方であって、「私たち」以外の他のあり方があるではないかと。また「ことばの外部がありえないなどと、何を寝ぼけたことを言っているのだろう、と思われるかもしれない」(傍線部(ア))。ことばは、ことば以外の物や事柄と結びつくことで、ことばとしての働きをもつのではないか、と反論されるかもしれない。(②段落)

 

逆に、当たり前のことを言っているにすぎないと、簡単に同意されるかもしれない。「私たち」は、同じ人間、同じ生命体として、全体集合を構成している。だから、「「私たち」は一つであり、すべてを含むのだ」と理解されるかもしれない。ことばと結びつけられる物や事柄たちの区別や秩序自体も、ことばの意味(概念)を介して分節化され構造化されているのだから、外部にあると思われている物や事柄も、実はことばの網の目に組み込まれて、すべてがことばの内部で秩序づけられている。だから、ことばの外部なんてない、あっても絶対無分別の暗黒宇宙のようなものだ、と理解されるかもしれない。(③段落)

 

しかし、私が言おうとしているのは、そういうことではない。(④段落)

 

 

⑤~⑨段落(第二パート)。たしかに、「私たち」というあり方は、「私たちでないもの」を排除して閉じようとすることで立ち上がる。しかし、「私たち」と「私たちでないもの」の区別を産み出しているのもまた、「私たち」である。つまり、「私たち」とは区別をつける(分割線を引く)ことでもあり、その区別によって分割された二項のうちの一方でもある。二項のうちの一方としての私たちには、たしかに外部(対立項)がある。しかし、その外部もまた、区別をつけることによって産み出されている。外部もまた、「私たち」の作動の内にある。「私たち」というあり方は、「私たち」と「それ以外のあり方」を同時に産み出すことを繰り返していくあり方だからこそ、その外がありえないのである。(具体例)。(⑤~⑦段落)

 

「私たち」は、とりあえず「外」を立ち上げつつも、その「外」を自らに回収しつつ、さらにまた「外」を立ち上げ続ける。この更新の繰り返しこそが、「私」たちというあり方に他ならない。この反復には、一見(とりあえず)外があるように見えて、実は外がない。地平線をまたぎ越して、向こう側に行くことなどできないのと同じように、あるいは、「どこまで行っても地平線のこちら側であり続ける」(傍線部(イ))のと同様に、「私たち」には外がない。(⑧段落)

 

したがって、「私たち」に外がないのは、堅固に閉じて閉鎖的であるからではない。どこまでも閉じることと開くことを繰り返すから、その外がないのである。また、「私たち」に外がないのは、一つの全体集合だからではない。むしろ閉じた集合になりえないことを反復するからこそ、外がないのである。「私たち」というあり方は「落差」の反復的な産出なのである。(⑨段落)

 

 

⑩~⑬段落(第三パート)。ことばを使って思考し話をすることに、その外部がありえない理由も、同様の「落差の反復」にある。それは、単純に物や事柄をことばの外部に位置づけるという発想とも違うし、逆に物や事柄をことばの網の目の内部にすべて取り込んでしまうという発想とも違う。むしろ、その両方の発想が一つに組み合わさり、かつその対関係が終わりなき繰り返しに巻き込まれることが、「落差の反復」である。(⑩段落)

 

まずは素朴に、一方にことばがあり、他方に物事があると考える。ことばの方が物事を方を指示して表現する。両者は、そういう仕方で結びついているように見える。しかし少し考えると、この素朴な発想は維持できなくなる。ことばでない方の物事にもまた、すでにことばが浸透しているのだから。物事を相互に区別し秩序化しているのは、ことば(概念)の持つ分節化の力である。一方にことばがあり、他方に物事があるという区別もまた、ことばの分節化を経由している。ことばの働きの中で、ことばと物事が分割され、かつ結びついている。(⑪段落)

 

しかし、ここから「ことばの網の目の内部にすべてが取り込まれる」と結論するのは、早計である。その当のことばも、人類がある時期手に入れたものであり、それぞれの人が一歳前後に獲得し始めるものだからである。ことばの誕生や獲得にも「歴史」がある。すべてを覆うように思われた「ことばの網の目」自体が、自然史(誌)の中へと位置づけられ、ことばの起源や獲得が語られる。いわば、「ことばは全体から局所へと墜落する」(傍線部(ウ))。(⑫段落)

 

しかしさらに、そのような「歴史」「起源」「発達」についての知見もまた、ことばによる分節化の賜物にほかならない。ことばの誕生以前もまた、ことばの意味の内部で描写されざるをえないのだ。このようにして、ことばにおいてこそ、ことばとことばの外の分割が産出され続けていく。ことばの外部がないというのは、そういう反復のことに他ならない。(⑬段落)

 

 

全体を振り返ると、冒頭で「「私たち」には外がない」(X)、「ことばには外がない」(Y)という二つの命題が提示される。次に、二つの命題それぞれに対して想定される、反論(②段落)と安直な同意(③段落)を挙げる。そして、④段落で反論と安直な同意の双方をいったん否定した後、⑤~⑨段落でX、⑩~⑬段落でYの正しさをそれぞれ根拠づける、という構成である。

 

〈設問解説〉問(一)

(1)堅固 (2)維持 (3)浸透 (4)発達 (5)描写

 

問(二) 「ことばの外部がありえないなどと、何を寝ぼけたことを言っているのだろう、と思われるかもしれない」(傍線部(ア))とあるが、筆者がそのように考えるのはなぜか。本文の内容に即して50字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。筆者は、「外があるという反論を想定している」から、「何を…言っているのだろう、と思われるかもしれない」と考えるのである。ただし、ただの反論なら「何を寝ぼけたことを」とまではならないはずである。
傍線とその次の文は、命題Yへの反論部である。その再反論を構成するのが⑩⑪段落だが、ここでもYへの反論内容が確認される。ここから、「外部に物事があり/それを指示・表現することばがある」、その見方は「単純(⑩段)」「素朴(⑪段)」であるゆえに、根強い反論となりうる。だから「何を寝ぼけたことを」といった感情を伴うのである。

 

<GV解答例>
外部に物事があって初めてそれを表現することばが機能するという、素朴ゆえに根強い反論が想定できるから。(50)

 

<参考/入不二基義先生(著者)による解答例>
ことばの働きは、その外部の物や事柄を表すことだという反論がありうると、筆者は想定しているから。(47)

 

<参考 S台解答例>
ことばはその対象である外部としての物や事柄と結びつくことで意味を持つと、一般的に考えられているから。(50)

 

<参考 K塾解答例>
ことばはその外部の物事を指示することで機能するので、筆者の考えは非常識だとみなされるはずだから。(68)

 

問(三) 「どこまで行っても地平線のこちら側であり続ける」(傍線部(イ))とは「私たち」のどのようなあり方をたとえているのか。本文の内容に即して、70字以内で説明せよ。

 

内容説明問題。傍線部から「(傍線部(イ))と同様に、「私たち」には外がない」と続くわけだから、「私たち」の「外がないというあり方」をたとえているといえる。あとは、どのような意味で「外がない」のかを、本文の記述と比喩の含意を照らし合わせて、具体的に説明する。
参照箇所は、⑦段落冒頭「「私たち」というあり方は、「私たち」と「それ以外のあり方」を同時に産み出すことを繰り返していくあり方だからこそ、その外がありえないのである」と、⑧段落冒頭「「私たち」は、とりあえず「外」を立ち上げつつも、その「外」を自らに回収しつつ、さらに新たな「外」を立ち上げ続ける」。特に「同時性」と「継続性/恒常性」を意識して解答したい。この2つは比喩の含意とも対応するからである。つまり、地平線に近づくと同時に地平線は離れるし(同時性)、その間の距離は永遠に保たれる(継続性/恒常性)。

 

<GV解答例>
「私たち」の外に「それ以外」を想定するや否や、「それ以外」も新たな「私たち」の内に回収され、原理上「私たち」に外部が存在しないというあり方。(70)

 

<参考/入不二基義先生(著者)による解答例>
「私たち」とは、私たちと彼らという対比の一方であると同時に、その対比(分割)自体を作り出し続けていく越えられない反復運動であるというあり方。(70)

 

<参考 S台解答例>
「私たち」と異なるあり方を区別し、外部と定義しても、この対立項を生み出すのは「私たち」なので、結局は外部を見いだすことにはならないあり方。(69)

 

<参考 K塾解答例>
「外」を立ち上げる分割線を引くことで成り立つが、同時にその「外」を自らに回収するため、更に新たな分割線を引き続ける、「外」のないあり方。(68)

 

 

問(四) 「ことばは「全体」から「部分」へと墜落する」(傍線部(ウ))とはどのようなことか。本文の内容に即して、70字以内で説明せよ。

 

内容説明問題。ポイントは、A「ことばの全体性」、B「「部分」への墜落」、C「Bの条件」。Aについては、⑪段落から「物事の区別も/ことばと物事の区別も/ことばの分節化を経由している」という内容と、⑫段落冒頭「ことばの網の目の内部にすべてが取り込まれる(よう)」を参照し、A「全てに先立ち/物事を分節し/内部に包摂する/と想定されたことば」とする。それが実は、C「ことばの起源や獲得の「歴史」を考慮する」(⑫段落)とき、B「個別的な現象に/すぎないことが/露になる」、とまとめる。

 

<GV解答例>
ことばの生成や習得の過程を考えた時、全てに先立ち物事を分節し内部に包摂すると想定されたことばが実は、個別的現象にすぎないことが露になること。(70)

 

<参考/入不二基義先生(著者)による解答例>
世界全体を分節化して秩序づけるという働きをしていることばが、その世界の中で起源等が説明できるような一部分として位置づけられてしまうこと。(68)

 

<参考 S台解答例>
ことばがその内部で全てを秩序づけるという考えは、外部の物事の分節化のために獲得された、起源を持つものに過ぎないという考えにより力を失うこと。(70)

 

<参考 K塾解答例>
ことばはすべての事物を取り込んでいるように見えて、実は人間による獲得物であることから、全体の中の一部にすぎないとみなされるということ。(67)

 

 

問(五) 筆者がこの文章で「「私たち」」と「ことば」を同時にとりあげているのはなぜか。本文全体の趣旨を踏まえて、50字以内で説明せよ。

 

 

理由説明問題。両者の関係は、主従でなく対等であり、かつ類比である。解答の形式は、「両者は、Aを指摘するための事例として、共通しているから」(Aは筆者の主張)となる。では、筆者が「「私たち」」と「ことば」を通して言いたいことは、両者の本文構成上の結節点である⑨⑩段落により、B「(両者に)外がないこと」とC「Bは「落差の反復」によること」である。「落差の反復」とは筆者の用語なので、説明的に言い換えると、D「外部を産出し内部に回収する反復」となる。上の解答形式のAの部分に(D→B)を代入して答えとする。

 

<GV解答例>
両者は、外部を産出し内部に回収する反復により「外がない」ことを示すための事例として共通しているから。(50)

 

<参考/入不二基義先生(著者)による解答例>
落差の反復ゆえに「外がない」というあり方を説明するために、「私たち」とことばの同型性が役立つから。(49)

 

<参考 S台解答例>
両者ともに、対象を分割することと結びつけることとを永遠に繰り返していく点が、同じだと訴えたいから。(49)

 

<参考 K塾解答例>
他者や世界といった外部は、「私たち」や言葉が不断の更新を繰り返すなかで産出されるものに過ぎないから。(50)

 

東北2

東北

沖縄県那覇市の大学受験予備校グレイトヴォヤージュ