本文理解

出典は串田孫一『緑の色鉛筆』。東大の第四問は文系のみで随想からの出題が基本である。 ①②段落。(有袋類の例を承け)どうして同じ哺乳類でありながら胎盤のない種類がいるのか。これは動物学では考えないことにしている問題である。それは学者にとっては用心しなければならない穽である。動物の中でもこれに似た奇妙な例がいくらでもあり、人間も例外でない。

③④⑤段落。(鳥類の包卵斑の例を承け)自分の子供を育てるために、また敵から子供を守るために、どれほどの配慮が行われているか、それらの書かれた動物の本は興味を持たれ、感動を与える。親は、ある機会にそれらの話を子供に聞かせ、動物の本を読ませる。人間はこうして教育の材料を見付け出すのが巧みである。

⑥~⑧段落。しかし「お膳立てのでき過ぎた与え方は効果が薄れ、時には逆の効果の現われる虞れもある」(傍線部ア)。それよりも、子供はある機会に、動物の生活の一部分に出会うことが必ずあると信じよう。その時、たとい残酷に見える行動に出ても、余計な口出しをしてはならない。親の眼に残酷に映る子供の行動には必ず何か別の意味が含まれている。残酷な行為だと親に教えられるよりも、自分からそれを感得する方がどれほど値打ちがあるかをまず考えることである。

⑨段落。動物と子供との間には、特殊な対話がある。だが、それを題材にして大人が創った物語にはかなり用心しなければならない。それらの大部分は「人間性の匂い豊かな舞台で演じられた芝居のように書かれている」(傍線部イ)からだ。

⑩~⑫(ファーブルの例)。動物をじっと見ている子供に、最初から動物愛護の精神を期待したり、生命の尊重を悟らせようとしても無理である。蚤を飼育しようと思い立ったある少年は、蚤の食事の時間を決めて、自分の腕にとまらせて血を与えた。その方法は自分の中の皮膚の柔らかい部分を毒虫に提供し、その刺した部分がどんな変化を見せたかを記録したファーブルの思いつきに似ている。「この少年を動物愛護の模範生のように扱う人がいたら、その思い違いを嘲う」(傍線部ウ)。それよりも蚤を飼育する子供を黙って見護っていた親を讃めなければならない。

⑬~⑮段落。親はしばしば子供に玩具として小動物を与える。そこで選ばれた小動物の多くは、その親子の犠牲になる。その犠牲のすべてを救いだそうとする第三者の憐愍の情は、子供と動物との間での対話がどの程度大切なものかを忘れているか、見誤っている。対話という言葉もある雰囲気は持っているがそれだけにごまかしが含まれていてあまり使いたくない。子供は玩具として与えられた二十日鼠と小型自動車とをきちんと区別している。小型自動車とは子供は対話をしない。そこまで言うと、「子供がしている小動物との対話」(傍線部エ)の意味がそろそろ理解されてくる。人形に向って子供はよく話しかけるが、それは大人の真似に過ぎない。動物との大切な対話は沈黙のうちに行われているのが普通である。名前をつけてその名をよび、餌を与えたり叱ったりしている時は人形への話しかけと同じてある。その、沈黙の間に行われる対話の聞こえる耳を持っている者は、残念ながら一人もいない。

 

設問(一)

「お膳立てのでき過ぎた与え方は効果が薄れ、時には逆の効果の現われる虞れもある」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。(60字程度)

理由説明問題。動物を題材に親が子に生命のあり方について教える仕方が話題になっている。それが行き届いたものでありすぎると、「効果が薄れ(消極的マイナス面/G1)」「逆の効果が現われる虞れもある(積極的マイナス面/G2)」理由を考える。
傍線部の後、⑦⑧段落を参考にする。特に「子供はある機会に動物の生活の一部分に出会う/自分からそれを感得する」を利用し、親の「教えすぎ」は「子供自身が実地で感得する機会を妨げるから」と理由を構成する。ただし、これだけでは「消極的マイナス面」にとどまる。ここからさらに「逆の効果が現われる」まで届くように論理的に推論し、「実地での体感を欠いた観念的な知は、逆に誤った判断を導きかねない」、だから「逆の効果が現われる虞れがある」とする。

 

<GV解答例>
親が子に生命のあり方について過剰に教え過ぎると、子供自身が実地で感得する機会を妨げ、誤解を招きうる観念的な知に留まりかねないから。(65)

 

<参考 S台解答例>
大人が教育的効果ばかりを狙って語る動物の物語は、子供が自ら動物とかかわり新鮮な驚きを味わう固有の体験を奪いかねないから。(60)

 

<参考 K塾解答例>
教育の手順を整えて子供を特定の価値観に導く教育では、子供自らが物事に直面して、自力で何事かを見出していくことを阻害してしまうから。(65)

 

<参考 Yゼミ解答例>
親が子にお仕着せの教訓を教え込もうとすると、子が動物との直接的交流を通して自ら学び得たはずの貴重な生の経験を損なうことになるから。(65)

 

<参考 T進解答例>
親自身の感動を踏まえ、動物の生から教訓を学ばせようとしてもうまくいくとは限らず、むしろ子供が自ら動物の生活の一部に出会うという貴重な機会を奪いかねないから。(78w)

 

設問(二)

「人間性の匂い豊かな舞台で演じられた芝居のように書かれている」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。子供と動物の交流を題材にした大人が創作した物語には用心しなければならない。そこには「人間性の匂い豊かな/演じられた芝居」臭が消せないからである。設問(一)が「親が子に与える物語」の「子供」の側からの説明だったので、本問は「親」の側から説明すればよい。こう整理できると、具体例を交えながら述べられた冒頭から⑤段落までの記述がいきてくるはずだ。
特に④段落から⑤段落の流れ「(動物の世界では)自分の子供を育てるために…どれほどの配慮が行われているか/親は…ある機会にそれらの話を子供に聞かせ/人間は…教育の材料を見付け出すのが巧みである」に着目し、「人間性の匂い豊かな」の説明を構成する。一方で、冒頭の例を承けた②段落の記述「どうして同じ哺乳類でありながら胎盤のない種類がいるのか。これは動物学では考えないことにしている」からも分かるように、人間は自らに都合のよい物語を導くために、動物の実態を恣意的に解釈し「芝居」に仕立てるのだ。以上をまとめる。

 

<GV解答例>
動物を題材に大人が子供に教え諭す物語の大部分は、人間的な教訓を引き出すために動物の実態を恣意的に解して創作された虚構だということ。(65)

 

<参考 S台解答例>
大人が子供に語る動物の物語は、自然が本来持つ残酷さを薄め、人間的な理想を描く作為にみちたものとなっているということ。(58)

 

<参考 K塾解答例>
動物と子供の交流を、現実の姿そのままではなく、人間同士の交流になぞらえ、感動的な物語に仕立てあげているということ。(57)

 

<参考 Yゼミ解答例>
動物と子供との対話に相を得た大人の物語には、動物を安易に擬人化し、人間的な教訓を動物に演じさせただけの皮相な作品が多いということ。(65)

 

<参考 T進解答例>
大人が描く子供と動物の交流の物語は、その多義的な内実を無視して勝手に人間同士の関係に置き換え、人間の倫理に即して理想化されたフィクションであるということ。(77w)

 

設問(三)

「この少年を動物愛護の模範生のように扱う人がいたら、その思い違いを嘲う」(傍線部ウ)とあるが、なぜ嘲うのか、説明せよ。(60字程度)

理由説明問題。「嘲う」理由は「思い違い」をしているからである。その「思い違い」を説明するとよい。ただし、「嘲う」とは「馬鹿にして笑う」ことである。その「思い違い」があまりに馬鹿らしいのである。また、「嘲う」の主体は筆者ではなく、その「思い違い」に接した人である。これを踏まえて「思い違い」の「馬鹿らしさ」を説明する。前⑪段にあるように「少年」は蚤を飼育してみようと思い立ち、その食事として自分の腕の血を与えた。それを「動物愛護」のような理念と重ね合わせるなら、誰が見たってあり得なく、荒唐無稽で「嘲う」だろう。これで理由が構成できる。
ここで、「子供のような人であった」ファーブルと「少年」を混同してはならない。前者は自らの知的探求のために毒虫に腕を刺させたが、「少年」の行為はあくまで好奇心が高じてのものであり、その結果として「少年」は「生命の本質」を感得したり、しなかったりするのである。

 

<GV解答例>
少年は蚤を飼育したいという好奇心が高じて蚤に自分の腕を噛ませたにすぎないのに、そこに崇高な理念を付与するのは非現実的で滑稽だから。(65)

 

<参考 S台解答例>
動物の生態の真実に迫ろうとする少年の欲求を受け止めずに、動物愛護という社会一般の価値観で歪めて解釈しているから。(56)

 

<参考 K塾解答例>
少年は蚤との関わりを純粋に探求しようとして自分の腕の血を与えているだけなのに、それを動物愛護と見誤るのは愚かなことだから。(61)

 

<参考 Yゼミ解答例>
少年の行動は動物を慈しむという意図からではなく、自分の身体を使って動物の生態を直接的に知りたいという強い欲求に基づくものだから。(64)

 

<参考 T進解答例>
少年が蚤に自分の血を与えたのは、その生命を尊重する思いからではなく、蚤の生態をより深く知りたいという、自分勝手な興味のためであることを理解していないから。(77w)

 

設問(四)

「子供がしている小動物との対話」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。子供と動物の「対話」はキーワードである。筆者はそれを、「対話という言葉もある雰囲気は持っているがそれだけにごまかしが含まれていてあまり使いたくない」(⑭段落)とあるように、特別な意味で使っている。該当箇所は最終の⑭⑮段落。そこから一般的な意味での対話と対比しながら、筆者の述べる子供と動物の「対話」の性格を明らかにしなければならない。「対話」の帰結を述べたりしてお茶を濁してはならないのである。
そこで筆者の「対話」(X)と一般的な対話(Y)の要素を分けて拾う。
X「子供と動物/沈黙/感得(⑧段)/じっと見る(⑪段)」
Y「人間と人間/話しかける/名前をつける/大人の真似/小型自動車(例)」
こう並べることで、Yが「大人の社会で(もちろんその学習段階にあり縮図である子供の社会でも)営まれる/言葉の意味を通じた/予定調和のコミュニケーション」だということが見えてくるだろう。そこから翻ってXは、「言葉の意味の通じない中で/子供と動物が対面し観察し/即興的にお互い感じ合ったり行為を交換していくこと」だと捉えられるはずだ。

 

<GV解答例>
大人の社会で営まれる所与の言葉を介した意思疎通ではなく、子供が小動物と向かい合う場で重ねられる、感性と行為の交換であるということ。(65)

 

<参考 S台解答例>
子供は動物と向き合う言葉のない時間の中で、残酷さを秘めた生命の不思議な実相を感得しているのだということ。(52)

 

<参考 K塾解答例>
動物界には理解しにくい仕組みがあり、子供は大人の常識とは無関係に、動物との関わりを通して生命の奥深さの一端を暗黙のうちに感じ取るということ。(70)

 

<参考 Yゼミ解答例>
子供が小動物と直に向き合い、言葉を介さずに互いに接触し、交流を深めることによって、生きることの本質や意味を自ら体得していくこと。(64)

 

<参考 T進解答例>
人間は動物の生の全ては理解できず、子供は沈黙のうちに小動物と触れ合うなかで時に理解不足から残酷にふるまうが反省もして、生命とは何かを感得していくということ。(78w)

 

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