〈本文理解〉
出典は山路愛山「明治文学史」(近代文語文)。
①段落。天下の人、指を学者に屈すれば(=指折り学者を数えると)必ず井上哲次郎君を称し、必ず高橋五郎君を称す。吾人は幸にして国民之友紙上に於て二君の論争を拝見するを得たり。…無学の拙者共(=拙者のような者)には御両君の博学ありありとと見えて何とも申上様なし。「去りながら博学畢竟拝むべき者なりや否や」(傍線一)。…二君の博学は感服の至りなれども博学だけにては余り有難くもなし。然るに(=それなのに)奇なるかな(=おかしなことだなあ)世人は此博学の人々を学者なりとてエラク思ひ、学問は二の町なれど(=二流だけれども)智慧才覚ある者を才子と称して賞賛の中に貶す(=賞賛される中で貶めようとする)。「是豈衣裳を拝んで人品を忘るる者に非ずや」(傍線二)。
②段落。才子なるかな、才子なるかな、吾人は真の才子に与する(くみする=味方する)者也。
③段落。吾人の所謂(いわゆる)才子とは何ぞや。智慧を有する人也。智慧とは何ぞや、内より発する者也、外より来る者に非る(あらざる)也。事物の真に達する者なり、其表面を瞥見する(=チラ見する)に止る者に非る也。自己の者也、他人の者に非る也。智慧を有する人に非んば(あらずんば=ないならば)世を動かす能はざる也(=世の中を動かすことができないのである)、智慧を有する人に非んば人を教ふる能はざる也。更に之(=智慧)を詳に(つまびらかに)日へば智慧とは実地と理想とを合する者なり、経験と学問とを結ぶ者なり、坐して言ふべく起つて行ふべき者なり。之なくんば尊ぶに足らざる也(=智慧がないならば尊敬するに足らないのである)。
④段落。吾人の人を評する唯正に彼の智慧如何と尋ぬべきのみ(=私が人の評価をする、その場合は正に、その人の智慧がどうしたものかを探るだけでよい)、たとひ深遠なる哲理を論ずるも、彼れの哲理に非ずして、書籍上の哲理ならば、何ぞ深く敬するに足らんや(=どうして深く尊敬するに足るだろうか)。…博士、学士雲の如くにして、其言聴くに足る者少なきは何ぞや。是れ其学自得する所なく、中より発せざれば也。(唯物論の例。憲法の例)。彼等の議論は彼等の経験より来らざる也、彼等の智識は彼等の物とはならざる也。
⑤段落。明治の文学史は我所謂才子に負ふ所多くして彼の学者先生は却つて為す所なきは之が為なり(明治の文学史において、私はいわゆる才子に依拠するところが多く、学者先生はむしろ何の役にも立たないことの次第は、以上に述べたことによるのである)。
〈設問解説〉問一「去りながら博学畢竟拝むべき者なりや否や。」を現代語に訳しなさい。
現代語訳。「去りながら(A)/博学(B)!畢竟(C)/拝むべき者(D)/や否や(E)」に分けて逐語訳する。Aは逆接で「しかしながら」、Bは常識語で「広く学問に通じていること(者)」、Cは漢文頻出語で「結局」、Dは「べし」を当然・適当の意味でとり「崇拝するのに適当な者」、Eは漢文句法で「…するかどうか」。これをつなげるだけで、特に不足はないだろう。
〈GV解答例〉
しかしながら、広く学問に通じている人は、結局、崇拝するに足る者であるかのどうか。
〈参考 S台解答例〉
とはいえ博学は結局のところ拝めるようなものであるのかどうか。
〈参考 K塾解答例〉
そうではあるが幅広い知識を持つことがつまるところ尊敬に値することであるのかどうか。
〈参考 Yゼミ解答例〉
しかしながら、知識が多いということは結局のところ崇拝に価するものであろうか、どうだろう。
問二「是豈衣装を拝んで人品を忘るる者に非ずや。」とあるが、このたとえで筆者が批判したいのはどういうことか、簡潔に答えなさい(25字以内)
内容説明問題。まず詠嘆の句法「豈…非ずや」に注意して、傍線部を逐語訳すると「これ(=博学の学者を尊び才子を貶すこと)は/衣裳を拝んで人品を見落とすこと(A)/ではないか!」となる。このAのうち、「衣裳/人品」という象徴的表現の含みを端的に表現すればよい。ならば、「衣裳」は「表面(の立派さ)」となり、それに対して「人品」は表面に目がいき見落とされる「人物の中身(内容)」となるだろう。これから解答は、「表面の立派さで人を評し/その中身を吟味しないこと」となる。
〈GV解答例〉
表面の立派さで人を評し、その中身を吟味しないこと。(25)
〈参考 S台解答例〉
人間をその本質ではなく表面の立派さで評価すること。(25)
〈参考 K塾解答例〉
世間が知恵のある人より単に博識な者を尊重すること。(25)
〈参考 Yゼミ解答例〉
人を人物本位で評価せず、知識ばかりを偏重する態度。(25)
問三 筆者の考える「才子」とはどのようなものか。文章最終行にある「学者先生」と対比しつつ答えなさい。(50字以内)
内容説明問題。「学者先生」(X)と対比して、筆者が評価する「才子」(Y)について説明する(「〜先生」は敬称であるのに対して「〜子」は蔑称であるが、筆者は皮肉の意味を込めてあえて使っている)。Yについての説明は③段落に詳しい。まず、その初めの自問自答「吾人の所謂才子とは何ぞや。智慧を有する人也。智慧とは何ぞや、内より発する者也、外より来る者に非る也」が参考になる。何よりもまずYとは「内より育つ智慧(知恵)をもつ者」(A)である。その知恵の説明として③段落「更に」以下「智慧とは実地と理想とを合する者なり、経験と学問とを結ぶ者なり」(B)を参照する。ただ、知恵は実地(経験)と理想(学問)を結ぶものだが、Yにとって所与のものと言えるのだろうか(たとえそうなら「才」は天性のもので動かし難いのだから(天才)、本文のような啓蒙的な文章を書くことが無意味になるまいか)。これについては疑問が残るので、いったん対立項Xに迂回して考える。
Xについての説明は④段落に詳しい。特に「是れ其学自得する所なく、中より発せざれば也」「彼等の議論は彼等の経験より来らざる也、彼等の智識は彼等の物とはならざる也」が参考になる。ここから、Xは「経験によらない外来の智識(知識)に頼り議論する者」(C)となる。そして、これから翻ってみれば、Yは「経験の中で知識を自らのものに高めた者」(D)と捉えられるだろう。まさにその経験から知識(knowledge)は知恵(wisdom)に育つのである(←A)。もちろん、その知恵はBにあったように実地(経験)と理想(学問)を円滑につなぐものであるからここには循環があるわけだが、解答ではXとの対比で「知識→経験→知恵」という流れを重視した。「学者先生」(X)は、机上の知識を蓄えるだけで、それを知恵に高める契機としての経験への意思に欠けるのである。そのことへの注意を喚起した文章ととるのが妥当ではなかろうか。以上より、「外来の知識で議論するだけの学者先生に対して(C)/知識を自らの経験と照合させて(B)/血肉化し(A)/知恵へと高めた存在(D)」とまとめた。
〈GV解答例〉
外来の知識で議論するだけの学者先生に対し、知識を自らの経験と照合させて血肉化し、知恵へと高めた存在。(50)
〈参考 S台解答例〉
他から得た知識を弄ぶ学者と異なり、事物の本質を自得して、学問を自らの経験につなぐ真の知恵をもつ者。(49)
〈参考 K塾解答例〉
他者の考えを解説するに過ぎない「学者先生」と異なり、自己の経験に基づいて養った知恵を実践できるもの。(50)
〈参考 Yゼミ解答例〉
他人の言説を借りて空虚な議論をする学者先生と対照的に、学問を行動に生かし世の中を発展させられる人物。(50)