目次
- 〈本文理解〉
- 問一「こうした発想法」(傍線部(1))はどのような発想法か、説明せよ。(2行)
- 問二「しばしば自分の読書の仕方に対するある後ろめたさの念におそわれた」(傍線部(2))について、筆者が「ある後ろめたさ」を感じたのはなぜか、説明せよ。(3行)
- 問三「これはむろん読書の態度としては、いわば〈邪読〉であって」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(4行)
- 問四「その〈忘却〉にも、意味がある」(傍線部(4))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(4行)
- 問五「読書の本質」(傍線部(5))について、筆者にとっての「読書の本質」とはどのようなものか、本文全体を踏まえて説明せよ。(4行)
〈本文理解〉
出典は高橋和巳「〈邪読〉について」。
①段落。『千一夜物語』は周知のように、大臣の娘姉妹が宮廷におもむき、夜ごと興味尽きぬ話を王にきかせてゆくという発想からなっている。そして、そのシャハラザードなる姉娘の話は、いわば萌芽増殖とでもいうべき形態をとり、たとえば旅をする一人の商人が道中不思議な三人の老人に会うと、その三人の老人がめいめいに自己の境遇を話し出して独立の物語となり、あるいは一人の登場人物がある状況に出くわして、「これはかつてあったある大臣と医者の話そっくりじゃ」と嘆息すると、その大臣と医者の物語が不意に膨張して独立の一篇をなすといった具合である。物語が物語を生み、登場人物が語り出した物語の中の人物がまた一つの物語を語りだす。…
②段落。察するに「こうした発想」(傍線部(1))の背後には、従来あまり問題にされないアラビア文化圏特有の存在論が秘められているのであり、それは彼らの生命観や歴史意識ともおそらくは無縁ではない。…
③段落。いまここで私は存在論を問題にしようとしているのではなく、考えてみたいのは「読書について」であるが、『千一夜物語』をふと思い出したのは、かつて青春の一時期、私はこの物語の発想に近い読書の仕方をしていたことのあったのを想起したからである。
④段落。一時、痩身病弱だったことのある私は、暗い下降思念のはてに死の誘惑にとりつかれ、それから逃れるために手当たりしだいに書物を読んだものだったが、それが何か確実な、具体的認識をうるためというよりは、パスカルの言う〈悲惨なる気晴し〉に近かったために、逆に一冊の書物を読んでいる過程での思念の動きは、あたかも『千一夜物語』のように、一つの瘤の上にまた一つ瘤が出来るといった気ままな膨張をした。
⑤段落。当時友人の一人に一冊の書物を読みきれば、その理解したところを見事に要約してみせねばやまない〈要約魔〉がいて、電車の中や街頭で彼の的確精密な要約を聞きながら、「しばしば自分の読書の仕方に対するある後ろめたさの念におそわれた」(傍線部(2))ものである。「あの本を読んだか」と聞かれ、嘘ではなく読んだ記憶があって、「ああ」と答えるのだが、想念を刺戟された部分や、小説ならば作中人物のある造形に共感を伴うイメージはあるのだが、どうしてもその友人がしてみせるようには、内容を整然と紹介したり説明したりできないのだった。後年、生活の糧をうるべく某新聞の無記名書評を担当したりしていた時、必要上、そうした技術も身につけたが、当時には、どうもその気にはなれず、また周囲にある事柄に関して及びがたい人物がいると、却って逆の性質を増長させてしまう交友心理もはたらいてか、私はますます妄想的読書にのめり込んでいった。やがて病は昂じ、一つの思念や想像が刺戟された時には、その思念や想像のがわに身を委ねて、あえて一つの書物を早急に読みきることに執着しなくなっていった。あげくの果てには、人が死ぬのは、疾病や過労によって肉体的生命が涸渇するからではなく、想像の世界が縮小し消失した時、なにものかに殺されるのであるという私かな確信すら抱くようになってしまったのである。
⑥段落。「これはむろん読書の態度としては、いわば〈邪読〉であって」(傍線部(3))、読書はまず即自有(※)としての自己を一たん無にして、他者の精神に接するべきものであり、あるいは確実な、あるいは体系的な知識を身につけるために読むべきものであることは知っている。また客観的精神というものは、そうした過程を経なければ形成されず、また、そうでなければ、認識と実践の統一という美しい神話も成り立たない。
⑦段落。しかしすべて邪なるものには、悪魔的魅力があるものであって、常に正しく健全であり続けることは、おそらく索莫として淋しいものではあるまいか。
⑧段落。私見によれば、ある領域に関して長ずるための唯一の方法は、半ば無自覚にそれに耽溺することであって、中庸というのはあくまで晩年の理想にすぎない。読書に関してもまた同じ。厠の中で何か読みはじめたために厠から出るのを忘れ、飯を食っている間ぐらい、考えごとをするのをやめなさいと両親にさとされても、生返事をしてあい変わらず妄想し、なおさっきの続きを読んでいるといった耽溺がなければ、なんらかの認識の受肉はありえないという気がする。そして、それは客観的精神がある時期に芽ばえ育つこととは必ずしも矛盾しない。
⑨段落。あえて〈邪読〉について書き続ければ、こうした耽溺のあとには必ず〈忘却〉がやってくる。何を読んだのだったか、題名の記憶はありながらその内容の痕跡がほとんど残らず、あたかもその時間が無駄であったように印象される。読んだ内容を可能な限り記憶にとどめているべき学問的読書や実務型の読書、あるいは次の実践や宣伝の武器としても、章句を記憶にとじこめておくべき行動型の読書から言っても、この〈忘却〉は、はなはだしく迂遠である。せっかく読んで忘れてしまうくらいなら読まない方がまし、とも言える。だがしかし、「その忘却にも、意味がある」(傍線部(4))と私は言いたい気もする。
⑩段落。これは経験的に確かなこととして言えると思うが、もし創造的読書というものがあるとすれば、それは必ずこの忘却を一つの契機とするからである。
⑪段落。かつてショーペンハウエルが思考なき多読の弊害を解き、ニイチェが文献学者から哲学者への転身に、その忘却の契機を積極的に生かしたことは周知のことに属するが、まこと読書は各自の精神の濾過器を経て、その大部分が少なくとも顕在的な意識の上からは、一たん消失するということがなければ、精神に自立というものはなくなるかもしれない。
⑫段落。ものごとはすべて失いかけた時に、そのことの重大さを意識する。いま私が〈邪読〉についてしるすのも、率直に言えば、私自身がすでにその〈邪読〉の条件を大はばに失ってしまっているからである。職業上の読書、下調べのための走り読み…。もっとも書物と縁が深いようで、少し心を許せば「読書の本質」(傍線部(5))から遠くなる危機をもった生活が、おそらく私にかつてあった豊穣な時間を無限に哀惜させるのであろう。
⑬段落。無論、そうであっても、なお〈邪読〉は〈邪読〉であり、一つの読書のあり方ではあり得ても、他の読書のあり方を排除すべき権利も理由もない。むしろ、人の顔がそれぞれ違うように、無限に多様な読書の態度がありえていいのである。
⑭段落。…
⑮段落。そして人生がそうであるように、誰しもあれもこれもと欲し、理想はさまざまの読書の型をそれぞれの人生の時期に経過することであるのだろうが、しかしまた人生そのものがそうであるように、人が一つの読書のあり方に比重をつけたまま、その生を終らざるをえないのであろう。
※ 即自有=ドイツの哲学者ヘーゲルの用語。「即自存在」ともいい、他者との関係によらずに、それ自体として存在するもの。以下の本文にある「客観的精神」、「認識と実践の統一」もヘーゲル哲学を意識したもの。
〈設問解説〉問一「こうした発想法」(傍線部(1))はどのような発想法か、説明せよ。(2行)
内容説明問題。②段落冒頭の「こうした」の承ける範囲は①段落である。特に、その終わりから二文目「物語が物語を生み、登場人物が語り出した物語の中の人物がまた一つの物語を語り出す」などを参照して、「物語が別の物語を増殖(派生)させながら膨張していく発想法」(A)とまとめるとよい。これを、これ以上詳しくしても仕方がないので、もう一つのポイントを探す。
そこで留意しなければならないのは、「こうした発想法」を一般的な表現でまとめるのか、あくまで『千一夜物語』の個別の発想法としてまとめるのか、ということである。これについては、本文がこの後「私はこの物語の発想に近い読書の仕方をしていた」(③段落)として展開することを踏まえると、後者のケースに当てはまるということが分かる。といっても「『千一夜物語』の発想法」としても自明のことだし、能がないので、傍線部の前後「察するに〜(a)/背後には(b)/〜アラビア文化圏特有の存在論が秘められている(c)」を根拠に次のように解答の前半をまとめる。「アラビア文化圏の存在論に(c)/根差すと(b)/思われる(a)/→A」。
〈GV解答例〉
アラビア文化圏の存在論に根差すと思われる、物語が別の独立した物語を派生させながら膨張していく発想法。(50)
〈参考 S台解答例〉
一つの物語が契機となり、それとは独立した物語を生み出すことを繰り返し、物語全体が際限なく増殖していくという発想法。(57)
〈参考 K塾解答例〉
特定の文化圏の生命観や歴史意識を背景として、一つの物語が新たな物語を気ままに増殖させていくという発想法。(52)
〈参考 Yゼミ解答例〉
一つの物語から枝分かれして新たな物語が生まれ、それを繰り返して物語が増殖・膨張していくような発想法。(50)
〈参考 T進解答例〉
ある物語の中の登場人物が新たな物語を話し出し、植物が増殖するように物語を膨張させていくような発想法。(50)
問二「しばしば自分の読書の仕方に対するある後ろめたさの念におそわれた」(傍線部(2))について、筆者が「ある後ろめたさ」を感じたのはなぜか、説明せよ。(3行)
理由説明問題。傍線部は「彼(当時の筆者の友人〈要約魔〉)の的確精密な要約を聞きながら」に続く箇所なので、そこに理由の中心がある。まさか、直後を根拠に「自分が要約できなかったことに引け目を感じたから」などとしてはならない。解答のベースは「書物を要約する友人の読書法(A)が正当だとして/筆者の読書法(B)は正当性を欠くものに思えたから」というものになる。
それではA(要約)と対比される「筆者の読書法」(B)とはどんなものか。それは『千一夜物語』の発想法に通じるものであり、傍線部と同じ⑤段落の後半に詳しい。特にAと対照的な「一つの思念や想像が刺戟された時には、その思念や想像のがわに身を委ねて、あえて一つの書物を早急に読み切ることに執着しなくなった」(⑤段落後ろ二文目)を参照するとよい。確かに要約をすること、つまり一冊からその養分を正しく搾り取るような読書法からすると、邪道なようにも思える。以上より「読んだ書物の内容を要約してみせる友人に対し(A)/一冊を読む過程で気ままに思念を膨張させる自身の読書法は(B)/書物本来の作用を蔑ろにしていると思えたから(→後ろめたい)」と解答できる。
〈GV解答例〉
読んだ書物の内容を的確に要約してみせる友人に対し、一冊を読む過程で気ままに思念を膨張させる自身の読書法は、書物本来の作用を蔑ろにしていると思えたから。(75)
〈参考 S台解答例〉
読書後、理解を的確精密に要約する友人と違って、思念や想像が刺戟されるに任せる筆者の読書法では、内容を整然と紹介し説明することもできず、引け目を感じたから。(77)
〈参考 K塾解答例〉
書物の全体を理解し的確に要約する友人の積極性に対して、自己逃避的な動機から、書物に刺激された特定の想念を漫然と膨らますという読み方しかできなかったから。(76)
〈参考 Yゼミ解答例〉
一冊の書物の内容を体系的に理解し的確に説明できる友人に比べると、悲惨な境遇から逃げるために濫読し、好き勝手に想念を膨張させる読み方は独りよがりに思えたから。(78)
〈参考 T進解答例〉
書物の内容を的確精密に整然と要約する友人の読書法に対して、書物に触発される思念や創造に身を委ねて妄想を膨らませる自分の読書が邪なものと感じられたから。(75)
問三「これはむろん読書の態度としては、いわば〈邪読〉であって」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(4行)
理由説明問題。⑤段落後半の内容を承けて「これ」(=筆者の読書の態度)は〈邪読〉である、と判断する理由を問うている。問二と似ていて、ここでも「正当な読書の態度」(A)が想定されているわけだが、それは問二と異なり傍線部に続く⑥段落の、哲学的な記述(※ ヘーゲルを踏まえる)に根拠がある。当然、「筆者の読書の態度」(B)の方も、問二と参照箇所こそ同じだが(⑤段落後半)、Aと合わせて表現のニュアンスを変えて示す必要がある。
まずAの根拠は「読書は〜自己を一たん無にして、他者の精神に接するべきものであり(a)/あるいは確実な、あるいは体系的な知識を身につけるために読むべき(b)/客観的な精神というものは、そうした過程を経なければ形成されず(c)/認識と実践の統一という美しい神話も成り立たない(d)」。このうちdについては、読書の副次的結果であるし、後述のBとも対応しないので、ここでの説明は省く。その上で、他の部分をパラフレーズしてAを示すと「書物の精神に自己を委ねた上で(a)/確実な、もしくは体系的な知識を得(b)/客観的精神の形成を目指す読書の態度(c)」となる。
一方でBについては、⑤段落の最終の二文、特に問二と分けて本問では最終文「あげくの果てには、人が死ぬのは〜想像の世界が縮小し消失した時、なにものかに殺されるのであるという私かな確信」に着目するとよい。筆者の態度は、読書を通して、思念や想像を増殖させていく「妄想的読書」(⑤)である。Aの「客観的精神」と対比するならば、Bは書物を入り口として、その書物から離れ、ひたすら自己の精神を肥大化させていくような態度である。以上の考察より後半を「Aを基準とした時、書物を自己の精神を肥大化させる手段として扱う自らの妄想的読書は(B)/正当性を欠くと言えるから(→邪読)」とまとめて、解答とする。
〈GV解答例〉
書物の精神に自己を委ねた上で確実な、もしくは体系的な知識を得、客観的精神の形成を目指す読書の態度を基準にした時、書物を自己の精神を肥大化させる手段として扱う自らの妄想的読書は正当性を欠くと言えるから。(100)
〈参考 S台解答例〉
想像の世界への筆者の私的確信に基づいた、思念や想像が刺戟されるままに読書に耽る態度は、自己を無にして他者の精神に接し、確実な、あるいは体系的な知識を身につけ、客観的精神の形成と認識と実践の統一を得る正しく健全な読書ではかいから。(114)
〈参考 K塾解答例〉
読書においては、自己の主観を対象化して他者の精神に触れ、得られた客観的な知識を実践へつなげていくべきなのに、書物の体系的な読解よりも、自己の想念の恣意的な動きに無意識のうちに耽溺するのが筆者の読み方だったから。(105)
〈参考 Yゼミ解答例〉
自己を無にして他者の精神に接し、客観性を養って認識と実践を統一するという、本来あるべき読書態度に比べると、自己の思念や想像に身を任せてひたすら読書に耽溺する筆者の読書は正しく健全なものとは言えないから。(101)
〈参考 T進解答例〉
書物を自己の妄想の契機にするのではなく、完結した自己を棚上げして虚心に執筆者の精神に接し、確実で体系的な知識に基づく客観的精神を形成して認識と実践の統一を目指すのが正統的な読書法と考えられているから。(100)
問四「その〈忘却〉にも、意味がある」(傍線部(4))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(4行)
理由説明問題。「どういう」意味があるかを指摘すれば足りる。ここでの〈忘却〉は、読書への耽溺を潜った後での〈忘却〉である。その「意味」については、続く⑩⑪段落に述べられる。特に「読書は各自の精神の濾過器を経て、その大部分が少なくとも顕在的な意識の上からは、一たん消失するということがなければ、精神に自立というものはなくなるかもしれない」(⑪)を参照するとよい。ここでの「精神の濾過器(a)/顕在的な意識の上から一たん消失(b)/精神の自立(c)」を「無意識下で(b)/自己の精神の求める知識を取捨選択し(a)/それを書物から切り離して自己の主体的認識に高める(c)」(A)とパラフレーズする。以上より、「読書への耽溺の後に必ず現れる〈忘却〉は/Aの上で不可欠だから」となる(仮)。
ただし、「〈忘却〉にも、意味がある」の理由を聞いているのだから、厳密には「にも」に配慮し、〈忘却〉が通常「意味がない」ということを前提として加える必要がある。根拠となるのは、傍線部一文が「だがしかし」で始まるので、その前の譲歩の部分。「学問的読書や実務型の読書/実践や宣伝の武器/行動型の読書」(d)にとって〈忘却〉は「はなはだしく迂遠である(e)」。このうちdを一般化し「実用的な目的からすると(d)/一見無駄に見える(e)」と言い換え、これを先述の仮解答のAの前に据えて最終解答とする。
〈GV解答例〉
読書への耽溺の後に必ず現れる〈忘却〉は、実用的な目的からすると一見無駄に見えるが、無意識下で自己の精神の求める知識を取捨選択し、それを書物から切り離して自己の主体的認識に高める上で不可欠な作用だから。(100)
〈参考 S台解答例〉
書物に耽溺した後にその内容がほとんど記憶として残らなくても、書物の内容は読者の精神による選別を経て、顕在的な意識からはいったん消失することを契機に、読書の精神が自立し、創造的読書につながると、筆者は経験的に確信しているから。(112)
〈参考 K塾解答例〉
書物に耽溺することに必然的に伴う内容の忘却は、学問や実務的必要の観点からは戒められるべきだが、読んだ内容を顕在的な意識からいったん消去する過程を経ないでは、自立した精神がなしうる創造的な読書は不可能だから。(103)
〈参考 Yゼミ解答例〉
読書に耽溺した後、本の内容に刺激された思念や想像が顕在的な意識から消えて去ってもなお、潜在的な意識において何らかの認識を体得することができ、それが自立した精神や客観性の形成につながる創造的契機になるから。(102)
〈参考 T進解答例〉
ひたすら読書に耽溺した後に書物の内容に関する顕在的な記憶が消失したとしても、その耽溺自体は人間の内に何らかの認識の受肉を実現しており、読書に伴う思考は精神の自立をもたらすと考えられるから。(94)
問五「読書の本質」(傍線部(5))について、筆者にとっての「読書の本質」とはどのようなものか、本文全体を踏まえて説明せよ。(4行)
内容説明問題。「筆者にとっての「読書の本質」」(⑫)を問うているわけだから、⑬段落以降の「読書は結局人それぞれ」といった内容は無視してよい。そして、その本質が「耽溺とその後の忘却」であることは見やすい。ただ、それだけならば前問までで答えた内容からの発展がないし、設問意図を探るという搦手からしても不足であることに気づけるだろう。
それではどこにポイントがあるのか。ズバリ、問三の根拠としても用いた⑥段落の「正読」の記述。もちろん、筆者はこの後「邪読」を肯定し、そこから「耽溺とその後の忘却」の説明に移るわけだが、しかし筆者は「正読」を排したわけではない。例えば⑧段落「耽溺がなければ、なんらかの認識の受肉はありえないという気がする。そして、それは客観的精神がある時期に芽ばえ育つこと(←「正読」)とは必ずしも矛盾しない」という記述。筆者は常識的な「正読」に「邪読」を対置し、その弁証法的な統一の中に「読書の本質」を見るのである。
そこで再度⑥段落の記述(※ ヘーゲルの概念に依る)を整理して、ヒントを探ろう。「書物への接近(※ 即自から対自へ)(a)→確実で体系的な知識の獲得(b)→客観的精神の形成(c)→認識と実践の統一(d)」。このうちdについては「美しい神話」ともあり、実現困難なレベルである。ならば、このdを導くためにこそ「邪読」が必要であることが、この後の展開を通して示唆されているのでなかろうか。そこを見抜くと解答まで一気にたどり着く。すなわち、「筆者にとっての読書の本質とは/確実で体系的な知識を得(b)/客観的認識を形成することに加え(c)/読書への耽溺とその後の忘却の作用を経て(←邪)/認識を同時に主体的なものに高め(←問四)/自らの実践をよりよいものに導くものである(d)」。「正読=客観的認識」(These)に「邪読=主体的認識」(Anti)を対置した上で、「よりよい実践」(Syn)へと止揚されるのである。
〈GV解答例〉
筆者にとっての読書の本質とは、確実で体系的な知識を得、客観的認識を形成することに加え、読書への耽溺とその後の忘却の作用を経て、認識を同時に主体的なものに高め、自らの実践をよりよいものに導くものである。(100)
〈参考 S台解答例〉
人はある読書のあり方に比重をかけたまま人生を終えるが、各人の個性や人生の時期による読書の型があり、無限に多様な読書の態度がある。とはいえ、筆者にとって読書の本質とは、豊穣な時間がもたらす、半ば無自覚な書物への耽溺というものである。(115)
〈参考 K塾解答例〉
読書は、書物の内容を客観的に理解することに尽きるのではなく、個々の読者が自らの人生のありように即した読み方を模索しつつ、読書に没頭する豊穣な時間を通じて、精神の創造性と自立を育む営みとしてあるもの。(99)
〈参考 Yゼミ解答例〉
読書態度は無限に多様であってよいのだが、筆者にとっての読書の本質とは、本の内容に刺激されて思念や想像を広げる耽溺やその後の忘却を経る豊饒な時間を過ごし、精神の自立と客観性京成へといたる創造的な営みである。(102)
〈参考 T進解答例〉
精読や多読によって書物の内容や章句を記憶に留めることを目指す実利的なものではなく、書物が刺戟する思念や想像を契機として膨らんでいく妄想に耽溺し、新たな認識の獲得や精神の自立が可能となるようなもの。(98)