〈本文理解〉

出典は川田順造『曠野から アフリカで考える』(1973)。著者は人類学者で、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』の翻訳で知られる。
 
①段落。このサヴァンナに生きる人々の生活は、荒々しい自然に対して人間がきわめて受動的にしか生きないとき、人間がひきずらなければならない悲惨を私にみせつける。だが、それとは逆に、自然に対して人間がいどみ、人間のもつある種の欲求に自然を従わせようとする努力をしゃにむにつづけたとすれば、そのゆきつく先は、世界の一部にわれわれがすでにみているように、一生土をふまず、合金の檻のなかでひたすら無精卵を産みつづける鶏や、植物の実としての機能をまったくうばわれた、気の毒な種子なし西瓜をつくり、大気や海を汚し、性行為を生殖からきりはなし、まもなく死ぬことがわかっている病人の、心臓の鼓動がとまらずにいる時間をただ少しでもながびかせるために、気管を切開して、最期に言いたいこともいえなくしてしまう医学を生みだすことになるのであろう。そして、「こうした方向への、人間の思いつめた突進」(傍線部A)は、人間のもつ欲求の一部分だけを絶対化し肥大させたいわゆる合理主義と結びついて、一層たがのはずれたものになったのであろう。だが、この土地の人々の生活をいくらかでも知ったあとでは、「私は、単純な自然・原始賛否の論には、どうしても与することができない」(傍線部B)。自然をまもれとか、自然にかえれというようなことが、それ自体人工的な形で問題になるのは、人間がある程度自然を制御するのに成功したあとのことである。自然にうちひしがれたままの人間というのは、みじめであり、腹立たしくさえある。
 
②段落。理想の楽園としての「人間の「自然状態」」(傍線部C)は、実際にはおそらく過去に存在しなかったし、現在も地上に存在しないだろう。いうまでもなく、私がいま見ているこのアフリカの一隅の人々の生活は、ヨーロッパの植民地支配に踏みにじられしぼりとられたあとの、それなりに「自然状態」からはきわめて遠いものである。しかし、アフリカの自然・歴史・社会についていま私がもっているわずかな知識と体験から考えられるかぎりでは、過去をいくらさかのぼっても、アフリカに理想郷があったとは思えないし、私の学んだかぎりでの、現代の人類学の知見も、原始状態を理想化することのむなしさを教えているようだ。私は、人類の歴史は、自然の一部でありながら自然を対象化する意志をもつようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も「人工的」に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある。人間の理想としての「自然状態」は、無気力に自然に従属した状態ではなく、また、すでにある手本をさがしてみつかるものでもなく、意志によって人間がつくりだすべきものなのであろう。
 
③段落。私は、二十世紀後半のアフリカ社会を語るのに、自然と人間という対置をあまり重くみすぎたかもしれない。いまこの国の人たちの生きている生活が、半世紀あまりのフランスの植民地支配によって、どれだけふみにじられたあげくのものであるかということは、簡単に言いつくせない。…天然資源の面で搾取される価値の乏しいこの国の、従順で辛抱づよい人たちが、近隣の、もっと搾取価値の高い植民地へ「人的資源」として、ムチで狩り出されて行ったかずかずの記憶。そのあげくの村の荒廃。入れわわりに流しこまれた安物の商品と貨幣経済。そして、思考や感性の根底から従順な子羊につくりかえてゆくような、フランス語の義務教育。
 
④段落。どうすればいいのかーーこの国の心ある人たちがたえず考えつづけてきた「この難問」(傍線部D)に、私が安直な答えを出せるはずもない。よそ者の私が、日頃土地の人、政府の人や、技術援助の外人などと話して思うのは、フランスの制度や技術、物の考え方から言語まで見習うことをやめて、皮相な「近代化」をいそがずに、遠まわりなようでも、生活の最基層部から、祖先以来の生活様式や技術の再検討していったらどんなものかとか、農業など生活技術の検討を、現地語を用いて、成人もふくめて、さかんにする気運はつくれないものだろうかとか、植民地分割の都合できめられたいまの国境を絶対化せずに、長い目でみてもっと必然性のあるアフリカ再統合の可能性を、近隣のアフリカ諸国と協力して探れないものか、などといったことだが、こうした傍目八目の理想論は、現実の政治情勢や、あらゆる面で形をかえて存続しているフランスの桎梏のために、かんたんには実現しそうもない。ただ、在来の生活様式・技術の再検討、その基礎資料の蒐集などは、「私の学んだ人類学の知識と、私がよそ者であるというとりえを活かし」(傍線部E)て、近い将来に、いま企画している条件がととのえば、土地の人に協力して実際にやってみようと思っていることの一つだ。…外来者は土地の人に「教える」のではなく、むしろ土地の人の知識や経験の深い意味を「学んで」、それを成熟させる触媒になることが大切なのではないだろうか。…
 
⑤段落。とはいうもの、いまの私にとっては、日々の体験のなかで、「頭からざぶりとかぶるなまの感情」(傍線部F)の前に、抽象的な思考にみちびかれた確信などというものが、いかにかげのうすいものでしかないかを思い知らされることの方が多い。知り合いの村の人に頼まれて、病人を私の小型トラックでテンコドゴの病院に運ぶときだけにはたしかにーーこの土地に多い髄膜炎で重体であったある男の子は、この私設救急車があったために、一命をとりとめたーーそれが全体からみればとるにたらぬ気休めにすぎないことがわかっていても、私は、ささやかな充足感のようなものを感じる‥‥。

 

〈設問解説〉問1「こうした方向への、人間の思いつめた突進」(傍線部A)とあるが、その前にある様々な具体例を通じて、著者はどのようなことを言おうとしているのか、説明しなさい。(3行)

 
内容説明問題。解答範囲は、①段落二文目の「だが〜自然に対して人間がいどみ、人間のもつある種の欲求に自然を従わせようとする努力をしゃにむにつづけたとすれば」(a)から、傍線部を含む一文「こうした方向への、人間の思いつめた突進は、人間のもつ欲求の一部分だけを絶対化し肥大させたいわゆる合理主義と結びついて、一層たがのはずれたものになったのであろう(次文は「だが」→傍線部B)」(b)まで。その間が「人間の思いつめた突進」の「様々な具体例」となっている。以上の構造から、「様々な具体例」を通じて著者が言おうとしていることの大筋は、「人間がある種の欲求に自然を従わせようとした結果(a)/たがのはずれたものとなる(b)」ということになる。ここでaの「ある種の欲求」とbの「たがのはずれた」を具体化するために、「様々な具体例」自体を検討し、吟味する必要が出てくる。
 
そこで具体例の要素を順に抽出すると、「無精卵を産む鶏(c)/種子なし西瓜(d)/大気・海洋汚染(e)/生殖から切り離された性行為(f)/延命医療(g)」となる。これらc〜gの要素をaの帰結として抽象化し分類すると、「自然の摂理の棄損(c・d)/生存の物質的基盤の解体(e)/生存の倫理的基盤(なぜ生きるのか)の解体(f・g)」となる。こうまとめてみると、人間が自らの生存欲求に従い自然に挑んだ結果(a)、その生存の基盤自体が脅かされる(b)というアイロニーが見えてくる。以上より「肥大化した生存欲求を貫徹しようと人間が自然に挑んだ結果(a)/自然の摂理が毀損され(c・d)/自らの生存の物質的・倫理的基盤が失われた(e・f・g)/ディストピアを招くということ(b)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
肥大化した生存欲求を貫徹しようと人間が自然にいどんだ結果、自然の摂理が毀損され、自らの生存の物質的・倫理的基盤が失われたディストピアを招くということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
人間が自らの欲求に荒々しい自然を従わせるような、欲求の一部を絶対化し肥大させた合理主義と結びつき、自然の秩序から逸脱した状況を引き起こしたこと。(72)
 
〈参考 K塾解答例〉
人間が自然に対していどみ、人間の欲求に自然を従わせようとする際限のない努力が、かえって自然や人間の本質を失わせてしまうということ。(65)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
現在生じている、動植物の生命軽視や自然環境破壊、生と死をめぐる倫理的問題などの背景には、人間が利己的な欲望に基づいて自然を制御・支配しようとする価値観があるということ。(84)
 
 

問2「私は、単純な自然、原始賛美の論には、どうしても与することができない」(傍線部B)とあるが、なぜ著者はこのように考えるのか、説明しなさい。(3行)

 
理由説明問題。問1の解答範囲が①段落の一つ目の「だが」と二つ目の「だが」の間にあるのに対して、問2の解答範囲はその両側にある。特に①段落の冒頭文「このサヴァンナに生きる人々の生活は、荒々しい自然に対して人間がきわめて受動的にしか生きないとき、人間がひきずらなければならない悲惨を私に見せつける」が根拠となる。こうした見解を、筆者は知識として理解してしているだけではなく、著者は人類学者としてサヴァンナに生きる人々の生活を身近に観察した体験から痛感しているのである(④)。以上より「荒々しい自然に対して人間が極めて受動的にしか生きない場合の悲惨な帰結を/サヴァンナに生きる人々の生活を身近に観察した体験をへて著者は痛感してるから」と解答する。
 
 
〈GV解答例〉
荒々しい自然に対して人間が極めて受動的にしか生きない場合の悲惨な帰結を、サヴァンナに生きる人々の生活を身近に観察した体験をへて著者は痛感しているから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
単純な自然・原始賛美論は、人間が自然を制御するのに成功したあとで問題になるものであり、自然に従属したままの人間はみじめさで腹立たしいのでしかないから。(75)
 
〈参考 K塾解答例〉
サヴァンナに生きる人々の生活は、荒々しい自然に対して人間がきわめて受動的にしか生きられないときに生じる人間の悲惨さを著者に見せつけるから。(69)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
サヴァンナの人々のように、人間が自然に対して受動的に生きれば悲惨な事態になるのであって、自然を生かしたり原始状態を理想化したりする論は現実を無視した観念論に過ぎないから。(85)
 
 

問3「人間の「自然状態」」(傍線部C)とあるが、著者は、これがどのようなものであるべきだと考えているか、説明しなさい。(3行)

 
内容説明問題。まず、著者は「理想の楽園/原始状態」としての「自然状態」を否定していることを確認する。その上で、著者が「あるべき」と考える「人間の「自然状態」」はどのようなものか。根拠となるのは、②段落「(私は)人類の歴史は/自然の一部でありながら自然を対象化する意志をもつようになった生物の一つの種が/悲惨な試行錯誤をかさねながら/個人の一生においても/社会全体としても/叡智をつくして〜/みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する/その模索と努力の過程ではないか(と思うことがある)」の箇所。ここは「歴史」についての説明だが、これを「自然状態」の説明となるように書き換え、「自然の一部でありつつ自然を対象化する意志をもった人間が/悲惨な試行錯誤を重ねながら/個人または社会全体としての叡智を尽くして/自然の理法に帰一した状態」と解答する。
 
 
〈GV解答例〉
自然の一部でありつつ自然を対象化する意志をもった人間が、悲惨な試行錯誤を重ねながら、個人または社会全体としての叡知を尽くして自然の理法に帰一した状態。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
無気力に自然に従属した状態ではなく、既成の手本としてあるものでもなく、「人工的」にみずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する試行錯誤を重ねるべきもの。(77)
 
〈参考 K塾解答例〉
自然を対象化する意志によって、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人や社会が、自然の理法に帰一しながら、叡知を尽くしてつくりだすべきもの。(67)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
本来自然の一部であるはずの人間が、無気力に自然に従属するのではなく、人類の叡智をつくして自然を対象化する努力をかさねることによって、あらためて自然の理法に帰一する状態。(84)
 
 

問4「この難問」(傍線部D)とあるが、どのようなことか、具体的に説明しなさい。(5行)

 
内容説明問題。「問題」という言葉は多義的(question/problem/issue/matter)であるが、「難問」の場合は「解決すべき(難しい)課題(problem)」と捉えればよいだろう。本文によると、前③段落冒頭で、二十世紀後半のアフリカ社会(サヴァンナの国)の生活は「半世紀あまりのフランスの植民地支配によって、どれだけふみにじられたあげくのものであるかということは、簡単に言いつくせない」(a)とあり、以下、その歴史的背景が具体的に述べられる(③)。そして、④段落冒頭で「どうすればいいのか」と承け、それをこの国の人たちが考えつづけてきた「この難問」とし、ここに傍線部が引かれている。以下、著者なりの「難問」に対するアプローチが具体的に挙げられ、「こうした傍目八目の理想論」は現在の政治情勢やフランスの桎梏のために簡単には実現しそうもない(→「難問」)と述べられている(④二文目)。
 
こう見ると「この難問」とは、「半世紀あまりのフランスの植民地支配によってもたらされた(a)/アフリカの荒廃の現状(X)に対して/どうすればいいのか(Y)/という解決困難な課題」ということになる。Xについては、③段落を参照するのが筋であろうが、記述が具体的すぎてまとめにくい。Yについては、④二文目の「どうすればいいのか」についての著者の具体的な考察を参照して、抽象化するとよい。さらに、Xについても「現状(③)→著者のアプローチ(④二文目)」を逆にたどり、「アプローチ」から「現状」を浮き彫りにする形で具体化してみるとよいだろう(「アプローチ」の中に「現状」は踏まえられている)。
 
そこで、④二文目の筆者なりのアプローチの要素を順に抽出すると、「フランスの制度・技術・考え方・言語を見習うのをやめる(b)/皮相な「近代化」をいそがない(c)/生活の基層部から祖先以来の生活様式や技術を再検討する+現地語を用いる(d)/植民地分割できめられた国境を絶対化せず近隣諸国と協力する(e)」となる。これと③段落から、サヴァンナの国の現状(X)については、「在来の生活様式・技術・言語(→思考や感性)の衰退(b・d)/近隣諸国との対立(e)」のような「半世紀あまりのフランス植民地支配によりもたらされた多大な傷跡」(a)が残る、とまとめることができる。それに対する「どうすればいいのか」(Y)については、どのように「生活の基盤を回復するのか」(d)、どのように「文化的な独自性(自尊心)」(b)を保ちながら「経済の発展(安定性)」(c)を達成するのか、と具体化することができる。
以上より「半世紀あまりのフランスの植民地支配により/在来の生活様式や技術、固有の思考や感性が奪われ/近隣諸国との対立も抱え/現在も多大な傷跡を残すサヴァンナの国で/どのように生活の基盤を回復させ/経済的な安定性と文化的な自尊心との両立を図るか/という解決困難な課題」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
半世紀余りのフランスの植民地支配により在来の生活様式や技術、固有の思考や感性が奪われ、近隣諸国との対立も抱え、現在も多大な傷跡を残すサヴァンナの国で、どのように生活の基盤を回復させ、経済的な安定性と文化的な自尊心との両立を図るかという解決困難な課題。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
半世紀あまり続いたフランスの植民地支配により、過酷な生活を余儀なくされた二十世紀後半のアフリカ社会に対する外部の者の視点からの理想の変革論は、現実の政治情勢や、あらゆる面で形をかえて存続しているフランスの桎梏のために、簡単には実現しそうもないということ。(127)
 
〈参考 K塾解答例〉
半世紀あまりのフランスの植民地支配により、人的資源として村人が狩り出され、安物の商品と貨幣経済が流し込まれ、フランス語の義務教育によってフランスに隷従するように思考や感性を根底から作り変えられてきた状況をどうすればいいのかという、解決困難な問い。(123)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
アフリカの人々は長い間、フランスの植民地支配によって物資を搾取され人的資源として使われ、その結果、荒廃した彼らの暮らしには安物の商品と貨幣経済が流入し、さらに、フランス語の強制によって思考や感性までもがつくりかえられてきた。こうした悲惨な状態から、どうすれば抜け出せるのかということ。(142)
 
 

問5「私の学んだ人類学の知識と、私がよそ者であるというとりえを活かし」(傍線部E)とあるが、「とりえ」というのは具体的にどのようなことか、説明しなさい。(3行)

 
内容説明問題。本問の「よそ者であるというとりえ」(④後半)は問6の「頭からざぶりとかぶるなまの感情」(当事者性)(⑤)と対になるものである。強い根拠となるのは傍線部の前文「傍目八目の理想論は、現実の政治情勢や、あらゆる面で形をかえて存続しているフランスの桎梏のために、簡単には実現しそうもない」。傍線部の一文は、これを「ただ」と承け、今後条件が整えば、そうした自分の考えを実行に移してみたい、そのときに「人類学の知識」と「よそ者であるというとりえ」が活きるというのである。「傍目八目」は当事者でないからこそ、ここでは「現実の政治情勢」やかつての宗主国「フランスの桎梏」に囚われないからこそ、客観的で(←傍目)先を見越した(←八目)判断が可能になるということ。⑤段落との対応関係から「抽象的な思考にみちかれた確信」(a)も解答に反映させるとよい。以上を踏まえて次のように解答した。「現地の政治情勢や/今も残る植民地時代の桎梏のような/利害関係から離れた立場で/人類学の知識に基づく/理論的に妥当性の高い施策を(a)/積極的に提案できること」。
 
なお、④段落の後ろから二文目「外来者は土地の人に「教える」のではなく、むしろ土地の人の知識や経験の深い意味を「学んで」、それを成熟させる触媒になることが大切なのではないだろうか」を根拠として使っても無効だろう。これは、外来者の「望ましい姿勢」についての筆者の見解を述べたもので、よそ者であることに内在する「とりえ」を述べたものではないのだから。
 
〈GV解答例〉
現地の政治情勢や今も残る植民地時代の桎梏のような現実の利害関係から離れた立場で、人類学の知識に基づく理論的に妥当性の高い施策を積極的に提案できること。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
在来の生活様式や技術に関する人類学的知見や外来者の視点に立ち、土地の人が持つ知識や経験の深い意味を学び、それを成熟させる媒介となることができるということ。(77)
 
〈参考 K塾解答例〉
土地の人たちの伝承を集めたり社会制度や習俗を比較しながら探ったりして、土地の人の知識や経験の深い意味を学び、それを成熟させる契機となるということ。(73)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
筆者はヨーロッパの人間でも現地の人間でもないために、客観的な視点で現地の人々の生活様式や技術を再検討でき、その知識や経験を学び成熟させる媒介になり得るということ。(81)
 
 

問6「頭からさぶりとかぶるなまの感情」(傍線部F)とあるが、どのような感情か、具体的に説明しなさい。(4行)

 
内容説明問題。④段後半で「よそ者であるというとりえ」について述べた上で(→問5)、⑤段冒頭で「とはいうものの」と反し、「いまの私にとっては/日々の体験のなかで(a)/頭からざぶりとかぶるなまの感情の前に/抽象的な思考にみちびかれた確信などというものが、いかにかげのうすいものでしかないかを思い知らされることの方が多い(b)」と続く箇所に傍線部はある。ここで「日々の体験」というのは、その次文(本文末文)にある現地の人々とのエピソードのような「全体からみればとるにたらぬ気休めにすぎない」(c)ものでありながら、著者(当事者)にとっては「ささやかな充足感」(d)を感じさせるものである。以上を根拠とした上で、傍線部の比喩表現を「抽象的な思考」との対比を踏まえて「五感に直接訴えかけてくるような/具体的な感情」とし、以下のように解答する。「学問的知識に基づく抽象的な思考ではなく(b)/現地の人々とともに日常の生活を営む中で体験される(a)/社会全体からするとささいな事柄であっても(c)/当事者にとっては重大な(d)/五感に直接訴えかけてくるような具体的な感情」。
 
 
〈GV解答例〉
学問的知識に基づく抽象的な思考ではなく、現地の人々とともに日常の生活を営む中で体験される、社会全体からするとささいな事柄であっても、当事者にとっては重大な、五感に直接訴えかけてくるような具体的な感情。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
ヨーロッパの植民地支配に踏みにじられてきたアフリカの人々の生活を目の当たりにすることで生じ、人類学的な知見に基づく抽象的な思考に導かれた確信の脆弱さを思い知らされる、自分の心を激しく揺さぶる生々しい感情。(102)
 
〈参考 K塾解答例〉
知りあいの村人に頼まれて、この土地に多い髓膜炎で重体だった男の子の命を救うために、地元の病院まで、外来者の著者の小型トラックで彼を運んだときに抱いた、実生活の中で現実に村人の役に立っているという充足感。(101)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
自然環境の面においても政治的・経済的な面においても悲惨な生活を送っているアフリカの人々の現地に腹立たしさすら感じながら、一方で、現地の人の役に立てたことにささやかな充足感を感じることもあるというような、一人の人間としての現実味のある感情。(119)