〈本文理解〉
出典は伊藤亜紗『手の倫理』。同年、九州大学第一問と同出典であった。
①段落。西洋哲学の文脈において触覚がどのように理解されてきたかを知るうえで、まずおさえておきたいのは、そもそも触覚が伝統的に「劣った感覚」として位置づけられてきた、ということです。
②段落。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。人間は五つの感覚を持つと言われています。…便宜的に五つに分けるとして、しかし、これらは決して対等ではなかったのです。
③段落。感覚のヒエラルキーの最上位に位置するのは、ご想像のとおり、視覚です。視覚が優位に立つのは、私たちが視覚に頼りがちだからではなく、「視覚がより精神的な感覚だと考えられた」(傍線部A)から。…
④段落。視覚が精神的な感覚であり、それゆえ最上位に位置すると考えられていたことは、たとえばプラトンの「イデア」論を見ればあきらかです。イデアという語はギリシャ語「イデイン」、すなわち「見る」に由来しています。認識の本質は、とりもなおさず「見る」ことにあると考えられていたのです。
⑤段落。…
⑥段落。なぜ、触覚は劣っているのか。まずあげられるのは、「距離のなさ」です。視覚であれば、対象から離れているので、対象から自己を切り離して、理性的に分析したり、判断したりすることが可能です。ところが触覚にはそうした距離がない。触覚は、対象に物理的に接触することなしには、認知が成立しないのです。ゆえに自己の欲望や快不快に直結してしまう。感覚のヒエラルキーは、大きく分けて視覚と聴覚が上位、嗅覚、味覚、触覚が下位に分けられますが、この二つのグループの線引きとなっているのが、まさにこの距離の問題なのです。
⑦段落。図式的にまとめるなら、視覚は人間の精神的な部分に、「触覚は逆に動物的な部分に関わる感覚である」(傍線部B)、と考えられていました。たとえば、19世紀ドイツの哲学者フォイエルバッハは、上位の感覚と下位の感覚について、端的にこうまとめています。(以下、引用文)。
⑧段落。「腹部」とは「肉体的欲望」と言い換えてもいいでしょう。美味しそうなリンゴがなっていたら、手を伸ばしてつかみ、口に入れて食べる。目ならば「眺める」ところを、欲望にまかせて自分のものにしてしまうその動物性において、触覚やその仲間である嗅覚や味覚は「低級」とされるのです。
⑨段落。一方で、この距離のなさは「リスク」を伴っています。視覚や聴覚は、対象との距離があるので、見たり聞いたりすることによって直ちに怪我をしたり死に至るということはありえません。けれども触覚、味覚、嗅覚の場合は、対象が刃物や毒だった場合には、認識することがすなわち怪我や死を意味します。認識にリスクが伴うという点は、触覚の弱さであると同時に、信頼の基盤になる重要な特徴です。
⑩段落。この「距離」の問題に加えて、触覚が視覚に劣るとされた主な理由がもう一つあります。それは、「持続性」の問題です。触覚は時間的な感覚である。これもまた、劣位を示す根拠となっていました。
⑪段落。家具であれ、家であれ、視覚であれば、適切な距離のもとに全体を一瞬のうちに認識することが可能です。ところが、触覚の場合は、部分を積み重ねるような仕方でしか、対象を認識することができません。ゆえに時間がかかる。
⑫〜⑭段落。…
⑮段落。このように、触覚は伝統的にその「距離のなさ」や「時間がかかる」という特徴から、下級の感覚として位置付けられてきました。しかし、なかには視覚と異なる特徴を持つという点で、触覚に独自の価値を見出した哲学者もいます。触覚について論じられてきた三つめの特徴は、このポジティブな文脈から出てきたものです。
⑯段落。触覚に独自の価値を見出した代表的な論者の一人に、18世紀フランスの哲学者コンディヤックがいます。…(〜23段落)。
㉔段落。コンディヤックは、その『感覚論』(1754)のなかで、自分で自分の体のあちこちにふれるところを想定して、こう述べます。「いたるところで固さの感覚が、互いに排除しあいつつも隣接しあう二つのものを表象せしめ、そしてまたいたるところで、その感触を感じているのと同じ存在が…『これは私だ』『これもまた私だ』と答えるのである」。
㉕段落。つまり、私たちが自分の体にふれるとき、それは同時に「ふれられているのは私だ」という感覚をもたらします。私が私にふれるときは、私は私によってふれられてもいる。この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、ここでは「触覚の『対称性』」(傍線部C)と呼びたいと思います。
㉖段落。この対称性は、その後、20世紀にメルロ=ポンティが好んでとりあげたことでも知られています。注意しなければならないのは、私は主体でも客体でもありうるけれど、同時に主体でありかつ客体であることはできない、ということです。「仮に私の左手が右手に触れ、そしてふと、触わりつつある左手の作業を右手で捉えようとしたとしても、身体の身体自身に対するこの反省は、きまって最後には失敗する。私が右手で左手を感ずるやいなや、それに比例して、私は左手で右手に触わることを止めてしまうからである」。
㉗段落。興味深いのは、コンディヤックにとって、この対称性が「体をもった物理的な存在としての私の発見」という形で経験されていることです。私が、単なる精神ではなく、固有の空間を占める物体として世界に存在していること。このことは、裏を返せば、私が体として存在していることは、「発見」されなければならないほど、ときに曖昧になりうるものなのだ、ということを示しています。触覚は、そのような曖昧さのなかにある私に、明確な輪郭を与えてくれます。触覚は、「魂を自己の外へと脱出させる感覚」なのです。
㉘段落。もっとも、コンディヤックにとっての体の発見は、体がないと仮定するところから思考を進める思弁的な操作の一段階でした。しかし実際に、私は自分の体の輪郭を見失うということがありえるのではないでしょうか。そして、そこからの復活にやはり触覚が重要な役割を果たします。
問一 (漢字の書き取り)
1.便宜 2.敵対 3.擁護 4.基盤 5.寓話 6.格好 7.架空
問二「視覚がより精神的な感覚だと考えられた」(傍線部A)とあるが、それはなぜか。40字以内で説明せよ。
理由説明問題。傍線部に続けて、筆者は「視覚が精神的な感覚であり、それゆえ最上位に位置すると考えられていた」ことをプラトンのイデア論に則り説明し、「認識の本質は、とりもなおさず「見る」ことにあると考えられていた」と述べる(④段落)。「視覚は認識の本質だ(と考えられていた)から」、これが「視覚がより精神的な感覚だと考えられた」ことの直接理由。
さらに、伝統的に劣位とされてきた触覚との比較で「視覚であれば、対象から離れているので、対象から自己を切り離して、理性的に分析したり、判断したりすることが可能です」と述べる(⑥段落)。「対象から離れている/対象を理性的に分析・判断できる」、これが「視覚による認識を可能にする」理由で、本問の間接理由。以上より、「視覚は/距離を置いて対象を把握し/理性的な判断を可能にする点で/認識の本質だから」と解答できる。
〈GV解答例〉
視覚は、距離を置いて対象を把握し、理性的な判断を可能にする点で認識の本質だから。(40)
〈参考 S台解答例〉
視覚は、対象を自己から切り離し理性的に分析し判断する認識の本質と考えられたから。(40)
〈参考 K塾解答例〉
主体と距離を置いた対象を理性的に分析、判断し、その全体を瞬時に認識し得るから。(39)
〈参考 Yゼミ解答例〉
対象と距離をとることで、全体を把握しながら理性的に捉えることが可能になるから。(39)
問三「触覚は逆に動物的な部分に関わる感覚である」(傍線部B)のはなぜか。50字以内で説明せよ。
理由説明問題。傍線部は前⑥段落の記述を、「視覚=人間的=認識」との比較で図式的にまとめたもの。特に「触覚は、対象に物理的に接触することなしには、認知が成立しないのです(a)/ゆえに自己の欲望や快不快に直結してしまう(b)」の記述を参照し、「対象に物理的に接することで成立する触覚は(a)/肉体的な(←⑧)欲望や快不快に直結するから(b)」とし、「触覚が動物的な部分に関わる感覚である」理由とする。
さらに、触覚が「認識の本質」(④)である視覚と比較して、認識に「時間がかかる」(⑩⑪)という点も加えておきたい(c)。すなわち、触覚の場合、精神の作用である(よって人間的でもある)認識に至る前に、欲望や快不快と関わるのである。先の解答を「〜触覚は(a)/時間を要する認識よりも(c)/〜に直結するから(b)」と直して、最終解答とする。
〈GV解答例〉
対象に物理的に接することで成立する触覚は、時間を要する認識よりも肉体的な欲望や快不快に直結するから。(50)
〈参考 S台解答例〉
触覚による認識は対象への直接の接触を要するため、肉体的な欲望や快不快に直結しやすいものであるから。(49)
〈参考 K塾解答例〉
対象に物理的に接触し、肉体的欲望や快不快に任せて、対象を自己のものにしてしまおうとするものだから。
(50)
〈参考 Yゼミ解答例〉
対象と物理的に接触するリスクを負いつつ、欲望にまかせて自分のものにする本能と結びついているから。(48)
問四「触覚の『対称性』」(傍線部C)とはどのような性質を指しているか。70字以内で説明せよ。
内容説明問題。「触覚の『対称性』」について、筆者はコンディヤックとメルロ=ポンティの二人の説明に依拠していることに注意する。まず前者については、先にコンディヤックの引用(24段落)を挙げ、「私たちが自分の体にふれるとき、それは同時に「ふれられているのは私だ」という感覚をもたらします(a)/この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性(b)」とする(25段落)。次に後者については、「注意しなければならないのは、私は主体でも客体でもありうるけれど(a)/同時に主体でありかつ客体であることはできない(b)」とした上で、メルロ=ポンティの引用を続ける(26段落)。
ここで、両者の記述をaとbに分けた上で、それぞれ重ねて整理したわけだが、このうちaについては特に引っかかるところはないが、b「主体と客体の入れ替え可能性/同時に主体でありかつ客体であることはできない」とはどういう事態か。これについては、メルロ=ポンティの引用を参照して理解するほかないだろう。それによると「左手が右手に触れる(c)→右手で左手を感ずる(d)=左手で右手に触わることを止める(e)」。すなわち、主体としての行為(c)から客体における認識(d)に転じると同時に、主体としての立場ではなくなる(e)、ということだろう。つまり、人間は事実として(客観的に)主体であり同時に客体であるのだが(a)、認識として(主観的に)主体であり同時に客体であることはできない(b)、のである。以上より、「人間が自分の体に触れる場合/その主体であると同時に客体でもあるが(a)//それを同時に認識できず/主体の認識と客体の認識は常に入れ替わるという性質(b)」と解答できる。
〈GV解答例〉
人間が自分の体にふれる場合、その主体であると同時に客体でもあるが、それを同時に認識できず、主体の認識と客体の認識は常に入れ替わるという性質。(70)
〈参考 S台解答例〉
対象に触れる自己は主体だと言えるが、それは同時に対象に触れられている客体ということでもあり、入れ替え可能な物理的な存在だという性質。(66)
〈参考 K塾解答例〉
自分の身体に触れるとき、自己の存在が明確になりつつ、触れる身体と触れられる客体とが、隣接し排除し合うなかで常に入れ替わり得るという性質。(68)
〈参考 Yゼミ解答例〉
自己の体に触れることは、触れている自分と触れられている自分の両方を自覚させ、一方を主体として認知すると、自動的に他方が客体化するという性質。(70)
問五「触覚」を筆者はどのようなものと考えているか。本論の論旨を踏まえて100字以内で説明せよ。
内容説明問題(要旨)。中間段階でのまとめである⑮段落の記述「このように、触覚は伝統的にその「距離のなさ」や「時間がかかる」という特徴から、下級の感覚として位置付けられてきました(a)/しかし、なかには視覚と異なる特徴を持つという点で、触覚に独自の価値を見出した哲学者もいます(→ポジティブな文脈)」に着目すると、一気に解答の方針が見えるだろう。a(ネガ面)についてはそのまま利用した上で、ポジ面については本文の締めにあたる㉗・㉘段落を参照すればよい。加えて見逃してはならないのは、⑨段落「認識にリスクが伴うという点は、触覚の弱さであると同時に、信頼の基盤になる重要な特徴です」(b)。この記述については、リスクが伴うからこそ、それを乗り越えて得た触覚による認識は信頼性が高い、あるいは、触覚によるコミュニケーションは、リスク認識を超えた信頼性の表れである、といった解釈ができようが、多義的なので踏み込まず本文の記述を利用しておく。
そこで㉗・㉘段落のポジ面だが、「私が〜固有の空間を占める物体として世界に存在していること/このことは〜私が体として存在していることは〜ときに曖昧になりうるものなのだ、ということを示しています/触覚は、そのような曖昧さのなかにある私に、明確な輪郭を与えてくれます」といつ記述を踏まえ、「触覚は身体の空間に占める外縁を確定するものである→個体性を保障する/生存の基盤となる」(c)とまとめる。以上より、「触覚は/伝統的に「距離のなさ」や「時間がかかる」という特徴から下級の感覚に位置付けられるが(a)/リスクと直結するゆえに信頼の基盤となり(b)/身体の空間に占める外縁を確定することで生存の基盤ともなるものである(c)(と考えている)」と解答することができる。
〈GV解答例〉
触覚は、伝統的に「距離のなさ」や「時間がかかる」という特徴から下級の感覚に位置付けられるが、リスクと直結するゆえに信頼の基盤となり、身体の空間に占める外縁を確定することで生存の基盤ともなるものである。(100)
〈参考 S台解答例〉
触覚は、対象から距離を取ることができず認識に持続的な時間を要するため、視覚より下位の感覚とされるが、触ることによって触られるという性質を通して、人間に身体的存在としての明確な輪郭を与えるものである。(99)
〈参考 K塾解答例〉
時間はかかるが対象全体を把握し得る触覚は、対象との距離の欠如という点で精神に関わる視覚より貶められてきたが、逆にその点が信頼の基盤にもなり、物質的身体としての自己を明確に認識させる重要なものである。(99)
〈参考 Yゼミ解答例〉
対象と距離をもたず、部分的な認識しかできないため低級な感覚とみなされがちだが、認識の信頼性の基盤となり、自らの肉体を物理的存在として認識させることで、曖昧な自己認識を明確にする積極的な一面をもつ。(98)