〈本文理解〉
出典は森田真生『数学する身体』。著者は「独立研究者」を名乗る。前書きに「数学者・岡潔について述べたものである」とある。
①段落。終戦後には、本格的に念仏修行にも取り組み始める。農耕と、数学と、念仏三昧の日々の中、岡は「第三の発見」にたどり着く。
「…こうしたある日、おつとめのあとで考えがある方向へ向いて、わかってしまった。このときのわかり方は以前のものと大きく違っており…それは宗教によって境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなったという感じだった」(『岡潔集第一巻』「宗教と科学」)
②段落。彼が「不定域イデアル」と名付けた概念の理論は、こうして生まれたのである。…
③段落。彼はこのときの発見を、「情操型の発見」(傍線部(1))と呼んだ。それは、以前に経験してきた「インスピレーション型の発見」とは違い、上から着想が降りてくるというより、下から地道に積み上げていくうちに視界が開けるようなわかり方であった。
④段落。普通は、それまでわからなかったことをわかるために、数学者は計算をしたり、証明をしたりする。しかし、「わかった」という心の状態を生み出す方法は、計算や証明だけではない。岡が第三の発見で経験したのは、自己の深い変容により、数学的風景の相貌がガラリと変わり、結果として、それ以前にはわからなかったことがわかるようになる、ということだった。この場合、自己変容の過程そのものが、紙と鉛筆を使った計算や証明とは別の仕方で、彼の心を「わかった」状態へと導いたのである。
⑤段落。岡は晩年、京都産業大学の学生たちに向けた講義の中で、興味深い発言をしている。その大要をかい摘むと、次のようになる。
「小川のせせらぎを構成する水滴の描く流線や速度は、いずれも重力その他の自然法則によって決定されている。しかし、その水滴の運動を人間が計算しようと思えば、厄介な非線形の偏微分方程式を解く必要がある。ある程度の近似を許したとしても、現実的な時間内でそれを正確に解くことは難しい。にもかかわらず、小川の水は流れている。「これはいかにも不思議である」(傍線部(2))」と。
⑥段落。自然は、人間やコンピュータによる「計算」とは違う方法で、しかもそれよりも遥かに効率的な方法で、同じ「結果」を導出してしまう場合がある。そもそも…計算というものは自然現象の振る舞いの安定性に支えられている。自然現象をある目的に沿って、部分的に切り出すことで計算は成り立っているのだ。そういう意味で自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している。
⑦段落。例えば、ボールを投げたときの軌道を計算したかったとしよう。このとき、どんなに緻密なシミュレーションをするよりも、実際にボールを投げてしまう方が、効率よく軌道を「導出」できる。自然環境そのものが、どんな計算機よりも潤沢な「計算資源」の役割を果たすからである。
⑧段落。小川のせせらぎやボールの軌道ですらそうなのだから、ましてや人間の身体は、どれほど豊かな「計算」の可能性を内蔵しているかわからない。人間の認知は、身体と環境の間を行き交うプロセスである。その結果として、記号化された計算によっては到底追いつかないような判断や行為が瞬時になされる。昆虫が不安定な大地の上を歩きまわったり、人間が巧みに物を掴んだり持ち上げたりできるのも、すべては「身体化」された、非記号的な認知の成せる業である。数学的思考もまた、「この例外ではない」(傍線部(3))はずだ。
⑨段落。記号的な計算は、数学的思考を支える最も主要な手段の一つであることは間違いないが、数学的思考の大部分はむしろ、非記号的な、身体のレベルで行われているのではないか。だとすれば、その身体化された思考過程そのものの精度を上げる──岡の言葉を借りるなら「境地」を進める──ことが、ぜひとも必要ということになる。
⑩段落。「境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなった」というとき、岡の念頭には芭蕉のことがある。芭蕉の詠む句は、どれも五・七・五の短い記号の列に過ぎない。したがって、原理的にはなんらかの計算手続き(=アルゴリズム)によって生成できたとしてもおかしくない。が、どんなすぐれたアルゴリズムよりも、芭蕉が句境を把握する速度は迅速だ。
⑪段落。芭蕉の句は「生きた自然の一片がそのままとらえられている」ような気がする、と彼は言う。
⑫段落。たとえば、
ほろほろと山吹散るか滝の音 (傍線部(4))
という句があるが、これなどは「無障害の生きた自然を流れる速い意識を、手早くとらえて、識域下に正確な映像を結んだ」ためにできたのだろう、と岡はエッセイの中で書いている。
⑬段落。…芭蕉の方法には「もの二つ三つ組み合わせて作る」アルゴリズムはない。芭蕉の句は、ただ芭蕉の全生涯を上げて「黄金を打ちのべたように」して “導出” される。その「計算速度」は、まさに電光石火の如しである。
⑭段落。芭蕉の意識の流れが常人より遥かに速いのは、彼の境地が「自他の別」「時空の框」という二つの峠を超えているからだと、岡は考えた。過去を悔いたり、未来を憂えたり、人と比べて自分を見たり、時間や空間、あるいは自他の区別に拘っていては、それが意識の流れをせき止める障害となる。逆に、そうした区別にとらわれなければ、自然の意識が「無障害」のまま流れ込んでくるというのである。
⑮段落。生きた自然の一片をとらえてそれをそのまま五・七・五の句形に結晶させるということに関して、芭蕉の存在そのもの以上に優れた「計算手続き」はない。水滴の正確な運動が、水を実際に流してみることによってしかわからないのと同じように、芭蕉の句は、芭蕉の境地において、芭蕉の生涯が生きられることによってのみ導出可能な何かである。
⑯段落。数学もまた、同じように進むことはできないだろうか。数学的自然の一片をとらえて、その「光いまだ消えざるうちにいいとむ」には、数学者もまた、それ相応の境地に居る必要がある。境地が進まなければ詠めない句があるのと同じように、境地が進まなければできない数学があるだろう。「第三の発見」において、岡はそれを身をもって経験したのだ。
⑰段落。この発見の直後、岡は研究ノートに、次のような言葉を書き付けている。
「今度ハ、前ノ数学ノ研究ノトキトハ、大分勝手ガ違フ、感奮セシメルモノハ何カ。強クヒクモノハ何カ。現在ノ自分ノ状態ハドウカ。数学研究カラ自己研究二入ツタノデアル…」(『評伝岡潔 花の章』)
⑱段落。岡の数学研究は、いよいよ自己研究の段階に入ったのだ。数学研究を捨てて自己研究に移るのではない。「数学研究が即ち自己研究なのである」(傍線部(5))。
問一「情操型の発見」(傍線部(1))はどういうことか、説明せよ。(三行)
内容説明問題。「情操型の発見」自体については、「宗教によって、境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなった(引用部)/下から地道に積み上げていくうちに視界が開けるようなわかり方(③)/自己の深い変容により、数学的風景の相貌ががらりと変わり、結果として、それ以前にはわからなかったことがわかるようになる(④)」を根拠として、「宗教的体験を通して/自己の深い変容が起こり/その結果、対象の見え方が明瞭になり新たな理解が可能になること」とした。
加えて、それが「第三の発見」であること(①)、「インスピレーション型の発見」とは異なること(③)、特に、数学者がわかろうとして行う計算や証明とは異なること(④)、を踏まえて、解答の頭を「対象から現れるものの直感的・合理的把握ではなく」とした。「インスピレーション=直感的把握=第一」、「計算や証明=合理的把握=第二」と見なし、それが「第三」とは異なることを表現した。
〈GV解答例〉
対象から現れるものの直感的・合理的把握ではなく、宗教体験を通して自己の深い変容が起こり、その結果、対象の見え方が明瞭になり新たな理解が可能になること。(75)
〈参考 S台解答例〉
それまで計算や証明だけでは理解できなかった数学的事象が、岡自身が深く変容することで、その過程に伴って全く違った様相で現れた結果、思考が展開して新たな着想をうるということ。(85)
〈参考 K塾解答例〉
突然に閃くのではなく、自己の心身が徐々に変容する過程において、それまでの数学的な様相が根本的に変化した結果、わかったという心の状態が自ずと生じるということ。(78)
〈参考 Yゼミ解答例〉
新たな考えが突然閃くのではなく、知的な働きの地道な積み重ねによって自己が変容する過程の中で、物事の本質が明晰になるような新たな認知が導き出されること。(75)
〈参考 T進解答例〉
論理的な方法を突き詰めて直観に至るのではなく、思考する主体である自己が変容し、それまで混沌としていた対象が分節化され、世界の構造が明晰化するということ。(76)
問二「これはいかにも不思議である」(傍線部(2))のように岡潔が感じたのはなぜか、説明せよ。(三行)
理由説明問題。「これは」以下傍線部は、岡の講演を筆者がかい摘んで要約した文章の中にある。設問に特別の条件づけがない以上、その要約文の範囲で「これ」を具体化した上で、解答を構成するのが筋であろう。「これ」の指す内容は、「(Yにもかかわらず)小川の水は流れている(X)」ということである。Xに対比されるYは、「その(小川の水滴の)運動を人間が計算しようと思えば、厄介な非線形の偏微分方程式を解く必要」があり「現実的な時間内でそれを正確に解くことは難しい」ということである。
それではなぜ、「YにもかかわらずX」であることが「不思議である」と岡は感じたのか?根拠となるのは要約文を承けた⑥段落「自然は、人間やコンピュータによる「計算」(→Y)よりも遥かに効率的な方法で、同じ「結果」を導出してしまう場合がある(→X)」という記述。この「不思議」さは、⑦段落「実際にボールを投げてしまう」という例にもあてはまる。以上より、解答は「人間が複雑な記号的(←⑧⑨)計算によって時間をかけて導出する「小川の水滴の運動」を(Y)/自然は現に「小川の水が流れる」という仕方で遥かに効率的に導出してしまうから(X)」となる。
〈GV解答例〉
人間が複雑な記号的計算によって時間をかけて導出する「小川の水滴の運動」を、自然は現に「小川の水が流れる」という仕方で遥かに効率的に導出してしまうから。(75)
〈参考 S台解答例〉
人間にとって現実的な時間内で正確に解き明かせないレベルの現象があるのに、自然界では自然法則にのっとって現象が瞬時に実現していることは驚くべきことだと思われたから。(81)
〈参考 K塾解答例〉
自然法則に複雑に決定されている現象は、人間がその全体像を計算することは至難だが、自然はそうした計算とは無関係に、その現象の総体を現に導出し続けているから。(77)
〈参考 Yゼミ解答例〉
人間が数学的に計算して解明しようとすると複雑かつ困難である自然現象であっても、現実には軽々と実現されており、人間を超越する自然の奥深さが感じとれるから。(76)
〈参考 T進解答例〉
ある目的に沿って部分的に切り出し計算することがいかに困難であっても、自然現象全体はそんな人間の計算を内包して効率的で安定した振る舞いを維持しているから。(76)
問三「この例外ではない」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(三行)
内容説明問題。「AもBの例外ではない」→「AもBだ」として、AとBをそれぞれ具体化すればよい。そのとき、Aは一見してBと対立するように解答を構成することになる。直接的には、Aは「数学的思考」、Bは「「身体化」された、非記号的な認知の成せる業」である。さらに、⑨段落「記号的な計算は、数学的思考を支える最も主要な手段の一つである」を根拠にAを「記号的計算を主要な手段とする数学的思考」と肉づけして、それがBと対立するかのように表現する。その上で、B「「身体化」された/非記号的な認知の成せる業」を、特に「身体化」のカギカッコを外して、分かりやすい表現で説明するとよい。
その根拠となるのは、「計算というのは自然現象の振る舞いの安定性に支えられている。…そういう意味で自然界には、常に膨大な計算の可能性が潜在している(⑥)/小川のせせらぎ…ですらそうなのだから、人間の身体は、どれほど豊かな「計算」の可能性を内蔵しているかわからない。人間の認知は、身体と環境の間を行き交うプロセスである(⑧)」。つまり「自然の中には膨大な計算の可能性が潜在している」→「人間は小川のせせらぎ同様、自らの内なる自然である身体を介して自然の計算可能性を認知する」→「その意味でAも非記号的(アナログ)な認知によって支えられている」ということである。以上の理解を適当な分量で解答にまとめると、「Aも/膨大な計算可能性を安定的に支える自然環境を/身体を介して認知する/非記号的な過程があるということ」となる。
〈GV解答例〉
記号的計算を主要な手段とする数学的思考も、その根底に、膨大な計算可能性を安定的に支える自然環境を身体を介して認知する、非記号的な過程があるということ。(75)
〈参考 S台解答例〉
数学的思考も、自然現象を部分的に取り出した記号的な計算を超え、他の判断や行為と同様に、自然そのものである身体と環境の相互作用として、人間の認知による営みの一つだということ。(86)
〈参考 K塾解答例〉
数学的思考は、記号的な計算だけに還元されるものではなく、環境と豊かに交錯する人間の身体に自ずから宿る、非記号的で瞬間的な思考過程に依拠しているということ。(77)
〈参考 Yゼミ解答例〉
人間の認知は身体と環境の間を行き交う過程であるため、数学的思考も、対象を部分的に記号化する計算だけではない、身体レベルの認知によって為されているということ。(78)
〈参考 T進解答例〉
人間の数学的思考も、物理的な自然現象と同様に身体と環境を行き交うプロセスであり、計算では捉え難い身体化された非記号的な認知から生成するということ。(73)
問四「ほろほろと山吹散るか滝の音」(傍線部(4))のような句はどのようにしてできたと考えられているか、説明せよ。(三行)
内容説明問題。「ほろほろと」の句は具体例なので、何の具体例なのかを前後から明確にして、設問で聞いている形に整えるとよい。参照箇所は、具体例の前の⑩段落「「境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなった」というとき、岡の念頭には芭蕉のことがある」(a)。そして、具体例直前⑪段落「芭蕉の句は「生きた一片がそのままとらえられている」ような気がする」(b)、直後⑫段落「これなどは「無障害の生きた自然を流れる速い意識を、手早くとらえて、識域下に正確な映像を結んだ」ためできた」(c)。さらに、具体例の後の⑭段落「芭蕉の意識の流れが常人より遥かに速いのは、彼の境地が「自他の別」「時空の框」という二つの峠を超えているからだ/そうした区別にとらわれなければ、自然の意識が「無障害」のまま流れ込んでくる」(d)、⑮段落「生きた自然の一片をとらえてそれをそのまま五・七・五の句形に結晶させる」(e)。これらに加えて、問三からの流れで⑧段落「人間の認知は、身体と環境の間を行き交うプロセス」(f)という要素も当然、芭蕉の句作に該当する。
以上を、順序よく、過不足なく、総合して、以下のように解答した。「芭蕉が自らの境地から(a)/身体を介して(f)/生きた自然の一片を(b)/自他や時空の区別なく(d)/一度に捉え(b)/識閾下に正確に結んだ像を(c)/五・七・五の句形に結晶させることによって(e)」(できたと考えられる)。
〈GV解答例〉
芭蕉が自らの境地から、身体を介して生きた自然の一片を自他や時空の区別なく一度に捉え、識閾下に正確に結んだ像を五・七・五の句形に結晶させることによって。(75)
〈参考 S台解答例〉
常人に把握しえない自然の瞬時の流れが、時間や空間、自他の区別にとらわれず、自然そのものである境地を生きる芭蕉の意識にそのまま流れ込み、句境として迅速に把握されて導出された。(86)
〈参考 K塾解答例〉
自他や時空の区別を超越した意識が、身体的な思考過程を通じて、眼前のありのままの生きた自然を、自らの生そのものと瞬時に重ね合わせて把握することによって。(75)
〈参考 Yゼミ解答例〉
詠み手が自己変容を積み重ねた結果、自他や時空の区別のない境地にいたり、計算的手続きによらずに、生きた自然をありのままに瞬時につかみとって表現した。(73)
〈参考 T進解答例〉
複数の対象を計算手続きで組み合わせたのではなく、自他、時空の区別を超越していた芭蕉の境地に自然の意識が流入し、それがそのまま迅速にとらえられて句ができた。(77)
問五「数学研究が即ち自己研究なのである」(傍線部(5))はどういうことか、本文全体を踏まえて説明せよ。(四行)
内容説明問題。傍線部は最終⑱段落、最終文にある。同じ⑱段落の前二文「岡の数学研究は、いよいよ自己研究の段階に入ったのだ。数学研究を捨てて自己研究に移るのではない」も踏まえて、解答構文は「数学研究は/Aという点で/自己研究と同義になる」という形でまとめるとよい。あとは、数学研究が、どういう過程を経て(A)、自己研究に一致するに至るかの、Aを説明するとよい。
手がかりとなるのは、⑯段落冒頭の二文「数学もまた、同じように進むことはできないだろうか。数学的自然の一片をとらえて、その「光いまだ消えざるうちにいいとむ」には(a)、数学者もまた、それ相応の境地に居る必要がある(b)」。ここで「同じように」というのは、芭蕉の句作のあり方(→問四)と同じように、ということである。また「数学的自然の一片をとらえて」というのは、問三で考慮した内容を踏まえればよいだろう。さらに⑨段落で、「身体化された思考過程そのものの精度を上げる(c)」ことを「「境地」を進める(b)」と言い換えていることにも着目する。以上より、数学研究が自己研究に移行する過程を整理すると、「数学研究は/膨大な計算可能性を安定的に支える自然を/身体を介して認知する/非記号的な過程に依拠する」(問三)→「その認知の精度を高めるためには(ac)/自己の境地を進める必要がある(b)」→「自己研究」となる。解答は「数学研究は/膨大な計算可能性を安定的に支える自然を身体を介して認知する非記号的な過程に依拠しており/その認知的精度を高めるには自己の境地を進める必要がある点で/必然的に自己研究と同義になるということ」となる。
〈GV解答例〉
数学研究は、膨大な計算可能性を安定的に支える自然を身体を介して認知する非記号的な過程に依拠しており、その認知的精度を高めるには自己の境地を進める必要がある点で、必然的に自己研究と同義になるということ。(100)
〈参考 S台解答例〉
数学研究は、目的に沿って部分的な自然現象に依存する記号的な計算に支えられる段階を含みながらも、自然そのものである人間の身体にもとづき非記号的な認知の精度をあげることで自己が内蔵する可能性を見きわめることであるということ。(110)
〈参考 K塾解答例〉
数学研究が、記号的計算に尽きるものではなく、環境と交感しあう人間の身体に宿る非記号的で瞬間的な思考過程に大きく依拠しているなら、それは研究主体の自己のありようそのものと関わってくるということ。(96)
〈参考 Yゼミ解答例〉
岡の数学研究は、数学的思考の対象となる現象をありのままにつかみとるような、身体レベルの非記号的認知によるものへといたったため、身体化された思考過程の精度をあげる自己研究を突き詰めることと不可分だということ。(103)
〈参考 T進解答例〉
数学研究とは、対象的自然の現象を計算して解明する営為にとどまるものではなく、さらにそうした思考に携わる自己の身体という自然の非記号的な認知の過程を究明し、自己の変容を追窮する営為に他ならないということ。(101)