目次

  1. 〈本文理解〉
  2. 問一 (漢字の書き取り)
  3. 問二「現実嵌入」(傍線部(1))とある。このことを説明している部分を、森有正の文章から、25字以内で抜き出せ。
  4. 問三[ (2) ]に入れる語句を、森有正の文章から六字で抜き出せ。
  5. 問四「新たな真なる「自己」を見出だそうとする」(傍線部(3))とある。ここでいう「新たな真なる「自己」」とはどのような自己か。次の( )に当てはまる表現を、J .クリステヴァの文章から三字で抜き出せ。
  6. 問五「「他者」論とは、近代「国民ー国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ、それに依拠して「自己」を見出だすことを強いられる人々にとっての、ユートピアなのである」(傍線部(4))とある。なぜ、「近代「国民ー国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ」た人々にとっては、「「他者」論」が「ユートピア」だというのか。80字以内で説明せよ。
  7. 問六「「国民ー国家」に囲まれて、「国語」なりに形成される「自己」意識への懐疑」(傍線部(3))とある。ここで筆者が述べる「懐疑」について、森有正を例に挙げて説明せよ。(60字程度)
  8. 問七 二重傍線部に「「敬語」論が、外国人に対する「日本語教育」において特に浮上するのは、それが、私たちにとって「対話」とは何か、という本質的な問題を提示するからである」とある。

 

〈本文理解〉

出典は中村春作『思想史のなかの日本語』。
 
①段落。「「敬語」論が外国人に対する「日本語教育」において特に浮上するのは、それが、私たちにとって「対話」とは何か、という本質的な問題を提示するからである」(二重傍線部A)。一義的に異質なる他者=外国人との遭遇であるからだけではなく、自らの内の「異質なるもの」の発見へと必然的に導き、自己像をゆるがすものだからである。
 
②段落。かつて自らもフランスで日本語を教授した森有正は、実際の教授経験の中から、「敬語」についての内省的考察を次のように行なっている。
 
「…日本語の敬語が複雑極まりないことは周知の事実である。しかも、日本人である以上、原則として敬語法を決して間違えないことも亦事実である。…これには二つのことが言えると思う。敬語法(貶語法も含む)が日本語全体のノーマルな性格であり、敬語法を離れた言い方はむしろ例外的なのである。これが一つと、もう一つは、以上のことと関連しているが、これ亦「現実嵌入」(傍線部(1))の顕著な例だということである。日本の社会が、上下的、直接的二項関係の連鎖・集合から構成されていることは、すでに述べたところであるが、敬語法こそは、そういう社会構成そのものを内容としているのである。…
 
私は近く刊行する予定である仏文の『日本語教科書』の中で次のように述べた。
 
日本語において、敬語は、特に重要な、特権的でさえある位置を占めている。正にこの特殊な相の下に、日本人の現実の社会生活とその言語空間とが内密に触れ合うのである。…
 
敬語は、従って、日本語の単なる一部分ではない。それは日本語のもっとも内奥の機構に根ざしている。…こういう条件の下において、[敬語に対して]中性的な言表は、この言葉にとってはむしろ例外なのである。」
 
③段落。森のこの発言は、「敬語とは私たちにとって何か」という問いに真剣に答えた数少ない一例である。そして、それが「日本語教育」において初めて「経験」された出来事であったことに必然性を感じるのである。森の日本社会に対する宿命論的なものの見方や日本人の一般化の点はさておき、ここに見出だされているのは、「敬語」的言語空間における「他者」認識の問題であり、「他者」のいない、「他者」を想定しない言語空間への違和感である。「敬語」に対しての「[ (2) ]」の成立しえないほどに互いに「嵌入」しあっている、と森に見出だされた言語空間とは、「二項関係の連鎖・複合」にすべてが還元・解消されてしまって真の「他者」を必要としない自己完結的世界である。そうした言語空間を、森は「経験」という彼独自の用語を使いつつ、「日本語教育」現場での「敬語」の出会いをてこに、厳しく批評するのだ。
 
④段落。こうした森の発言を文化実体論的にとらえて、表面的に賛成したり疑義を呈したりすることは、実は簡単である。…私たちは、そのように森有正の問いを一般論に整理してしまうのではなく、その発言の志向したところを、身に引き受けて再考しなければならない。
 
⑤段落。それは個別文化批判を超えた、近代人の本質的課題、すなわち、人はいかにして「他者」にであうか、またいかにして「自ら」を見出だすかという課題である。それを森は、そうした契機を囲い込み、見えなくしてしまう制度=共同的言語空間に対する戦いとして発見したのであり、(否応なしに)自らを構成する近代「日本語」の体系に対する闘いとして表現したのだ。…「敬語」体系内的自己表出=役割としての「自己」表出から、人はどうしてもズレてしまうのであり、「新たな真なる「自己」を見出だそうとする」(傍線部(3))のである。森において、「日本語教育」はそれを、すなわち、「自己」を構成する制度としての近代言語体系との軋轢や葛藤を、強烈に意識せざるを得ない場であったのだ。
 
⑥段落。「「他者」論とは、近代「国民ー国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ、それに依拠して「自己」を見出だすことを強いられる人々にとっての、ユートピアなのである」(傍線部(4))。
 
「…したがって、他者との出会いは必ず間柄として与えられた私の立場も相手の立場も壊してしまい、期待を裏切ることになる。しかし、こうして裏切られた期待が修復されることはなく、したがって本来性への回帰の運動の中の一契機と考えることはできない。…
他者において開始されるのは、私は不可分の統一体としての個人ではないこと、回帰によって規定される同一性でもないという基本的な了解である。そして、他者とは、体系的に整序された社会関係の総体としての「社会」から決定的に、つまり修復不能な仕方で、「ずれ」「外れ」てしまった者のことであり、だから、私は常に私自身に対して他者なのである。…」(酒井直樹)
 
⑦段落。自らが「不可分の統一体」「回帰によって規定される同一性」であることの自覚を内・外から構成させるのは、完結的なものとの想定される言語の体系であり、そうした意識化された言語体系、つまり「国語」は、「国家」「国民」とともに、十九世紀ナショナリズムの運動の中で創造=想像されたものなのだ。私たちの近代的自己意識というものは、あくまでそうした全体としての編制の一部でしかないのである。…「敬語」意識も、同様に日本における「国民ー国家」生成のただ中で、「国語」的自己把捉の体系=秩序としてあらためて自覚化されたものなのだ。
 
⑧段落。かくして、「敬語」論の再検討、あるいは「日本語教育」という問題は、私たちに対して二重の思想的課題を投げかけてくる。第一には、「国民一国家」システムが全世界的に揺らぎつつある今日、「国民」の外部としての「外国人」という概念のゆくえについて、すなわち近代の制度化に押し込められた「異質なるもの」の浮上において、第二には、「「国民一国家」に囲いこまれて「国語」なりに形成される「自己」意識への懐疑」(傍線部(5))、において。
 
「外国人を検討するには自分自身を検討すればよい。自らの厄介な他者性を解明すること。我々がしっかりと自分たちだけの《我々》にしておきたいもののまっ只中に影の如く出現する他者。…この時出現したものこそ我々自身の他者性にほかならないのだ。」(J.クリステヴァ)
 
 

問一 (漢字の書き取り)

a.遭遇 b.真剣 c.葛藤 d.措定 e.脅威

問二「現実嵌入」(傍線部(1))とある。このことを説明している部分を、森有正の文章から、25字以内で抜き出せ。

 
〈答〉現実の社会生活とその言語空間とが内密に触れ合う(こと)(23)
 

問三[ (2) ]に入れる語句を、森有正の文章から六字で抜き出せ。

〈答〉中性的な言表
 

問四「新たな真なる「自己」を見出だそうとする」(傍線部(3))とある。ここでいう「新たな真なる「自己」」とはどのような自己か。次の( )に当てはまる表現を、J .クリステヴァの文章から三字で抜き出せ。

新たな真なる自己=( )を持った自己
〈答〉他者性
 

問五「「他者」論とは、近代「国民ー国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ、それに依拠して「自己」を見出だすことを強いられる人々にとっての、ユートピアなのである」(傍線部(4))とある。なぜ、「近代「国民ー国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ」た人々にとっては、「「他者」論」が「ユートピア」だというのか。80字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。「他者」論が、どういう性質のものかというのを示し、それが「国語」体系に囲いこまれた人々にとってのユートピア(=現状とは異なる理想的な場)であることを示すとよい。本文に「他者」論についての直接的な言及はないが、「他者」についてはまず③段落、森有正によると「敬語」的言語空間は「他者」を想定しない自己完結的世界である(a)、と述べる。次に⑤段落、森のそうした批評は「人はいかにして「他者」にであうか(b)/またいかにして「自ら」を見出だすかという課題(c)」として捉えられ、bcの契機を囲い込み、見えなくする制度として日本語の共同的言語空間がある(d)、としている。
 
つまり「他者」についての言及は、近代国民国家の共同的言語空間により規定され(d)「他者」を想定しない自己完結的世界(a)を相対化することで、人々をその呪縛から解放する、その上で「他者」との出会いを可能にし(b)、折り返し真の自己(=自らの中の「他者性」←問四)を発見する(c)契機となる、その意味で「ユートピア」なのである。以上を適切な字数に圧縮し、「「他者」論は/近代国民国家の共同的言語空間により規定された(d)/他者を想定しない自己完結的世界(a)/から人を解放し/他者との出会いを通して(b)/真の自己を見出す(c)/契機を与えるから」と解答した。
 
〈GV解答例〉
「他者」論は、近代国民国家の共同的言語空間により規定された他者を想定しない自己完結的世界から人を解放し、他者との出会いを通して真の自己を見出す契機を与えるから。(80)
 
〈参考 広島大学解答例〉
「自己」を見出だすためには自己の外側に他者を発見し関わらなければならないが、自己完結した「国語」体系の中では、そのような他者を外部に求めることは難しいから。(78)
 
〈参考 K塾解答例〉
近代国民国家のなかでの国語体系に埋没する自己のありように無自覚な人々にとって、そうした自己とは異なる自己の内なる他者のありようを自覚させるものだから。(75)
 
 

問六「「国民ー国家」に囲まれて、「国語」なりに形成される「自己」意識への懐疑」(傍線部(3))とある。ここで筆者が述べる「懐疑」について、森有正を例に挙げて説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。森有正の体験に即して「懐疑」について説明する。まずは②段落「フランスで日本語を教授した森有正は…「敬語」についての内省的考察(a)/を次のように行った」とし、その後に引用が続く。その引用を承けた③段落「そうした言語空間(=「敬語」に象徴される「他者」を必要としない自己完結的言語空間)を…「日本語教育」現場での「敬語」との出会いをてこに、厳しいく批評する」。そして、この批評は同時に「自己」認識につながるというのが⑤段落。特に「森において、「日本語教育」は…「自己」を構成する制度としての近代言語体系(b)/との軋轢や葛藤を、強烈に意識せざるを得ない場であった(c)」を参照するとよい。
 
以上を簡潔にまとめ、解答は「フランスでの日本語教育を契機とした敬語についての内省的考察を通して(a)/国語体系に規定された自己の自明性に(b)/違和感を抱くこと(c)」となる。傍線部の「「自己」意識」を、「(日本語教育によって)強烈に意識せざるを得ない(c)」という記述を逆利用して、これまでは「特殊であるにも関わらず意識にのぼらなかった」という意味で「自己の自明性」と表現した。
 
〈GV解答例〉
フランスでの日本語教育を契機とした敬語についての内省的考察を通して、国語体系に規定された自己の自明性に違和感を抱くこと。(60)
 
〈参考 広島大学解答例〉
近代「国民」ー「国家」の中で「国語」体系に囲いこまれ、それに依拠して仮の「自己」を作り出してきた日本人の森が、日本語教育や「敬語」論の再検討を通して、仮の「自己」を疑うというような、痛ましい思いを経験するということ。(108)
 
〈参考 K塾解答例〉
上下的、直接的二項関係の連鎖・集合から構成されている日本社会の構成そのものを内容としている敬語法を無自覚に駆使している自分自身への疑いのこと。(71)
 
 

問七 二重傍線部に「「敬語」論が、外国人に対する「日本語教育」において特に浮上するのは、それが、私たちにとって「対話」とは何か、という本質的な問題を提示するからである」とある。

1 筆者が述べる「対話」とはどういうものか。本文中の言葉を用いて50字以内で説明せよ。
 
内容説明問題。二重傍線部が「…aがbからである」、続く文が「cからだけではなく、dからである」という構文であることに着目する。ここからb=「対話」の説明は「cだけではなくd」ということになる。「本文中の言葉を用いて」という断りは、cdをそのまま用いてよいということだろう。よって「異質なる「他者」との遭遇だけではなく(c)/自らの内の「異質なるもの」を発見し自己像をゆるがすもの(d)」と解答できる。
 
ただし、cとdのつなぎはもう一工夫あってよかろう。なぜ最初にc=「「他者」との遭遇」を挙げているかといえば、「対話」においては通常「他者」が想定されるからである。また、二重傍線部の前半に「外国人に対する「日本語教育」において」とあることからも、cの場合もあればdの場合もあるというように、いきなりd=「自己との対話」があるのではなく、あくまで「他者との対話→自己との対話」という経路をたどるはずである。「本文中の言葉」はそのままでも、ここの関係性は正しく示しておきたい。よって、より適切な解答は「自らと異質なる他者との遭遇を通して(c)/自らの内の「異質なるもの」を発見し、既存の自己像をゆるがすもの(d)」となる。
 
〈GV解答例〉
自らと異質なる他者との遭遇を通して、自らの内の「異質なるもの」を発見し、既存の自己像をゆるがすもの。(50)
 
〈参考 広島大学解答例〉
自分とは異なる他者と関わるだけはでなく、自らの内の「異質なるもの」を発見し自己像をゆるがすもの。(48)
 
〈参考 K塾解答例〉
異質な他者である外国人との遭遇であるばかりか、自己の内なる異質なものを発見し、自己像を揺るがすもの。(50)
 
 
2 外国人に対する「日本語教育」において、なぜ「敬語」論が「私たちにとって「対話」とは何か、という本質的な問題を提示する」のか。本文全体をふまえて説明せよ。(90字程度)
 
理由説明問題。「敬語」論が「対話」へいかに架橋されるか、直接言及している箇所は見当たらない。ただ「対話」が問七の1で考察したように「他者→自己」といった経路で現れること、そして「敬語」的言語空間は「他者」を想定しない言語空間であり(③)、森は「日本語教育」においてそれへの違和感を強烈に感じ(⑤)、「敬語」への内省的省察に至ったこと(②)、から一応の理由は構成できる。要するに、「他者」との出会い=「対話」を妨げる「敬語」への省察を通して(a)、逆に「対話」を成り立たせる条件を考察するに至った(b)、という論理である。
 
これに加えて、本文と全問のバランスを見渡した場合、森自身による「省察」の内容(②の引用部)を繰り込みたい。すなわち、「敬語」が日本人にとって「ノーマルな性格」であり(c)、「現実嵌入」(=社会生活と言語空間の一致)の顕著な例だということである(d)。以上より、解答は「日本語の話者にとって敬語は日本社会の人間関係を忠実に反映した(d)/自明なもので(c)/その共同的言語空間の外部者との「対話」を困難にする以上(a)/逆に「対話」成立の条件を内省させる契機となるから(b)」とまとめられる。
 
〈GV解答例〉
日本語の話者にとって敬語は日本社会の人間関係を忠実に反映した自明なもので、その共同的言語空間の外部者との「対話」を困難にする以上、逆に「対話」成立の条件を内省させる契機となるから。(90)
 
〈参考 広島大学解答例〉
敬語を外国人にどう教えるかを考えることによって、敬語が複雑で外国人に難しいだけでなく、その難しい敬語を使わずにはいられないほど日本社会と敬語とが密着していることに驚きを持って発見し、そのような空間の中で生きる自己を再発見し自己をふりかえるきっかけとなるから。(129)
 
〈参考 K塾解答例〉
日本語教育において日本語の敬語は外国人に複雑極まりないことを示すことで、その敬語を決して間違えない日本人に、近代日本語の体系の中にいかに埋没しているかを明らかにしてくれるから。(88)