問三 市民社会に関するヘーゲルの思想を参考にして、「働くこと」の意味について自由に論ぜよ。(400字内)
〈GV解答例〉
ヘーゲルは、市民社会を「欲望の体系」と述べ「人倫の喪失状態」と見なした。彼において人倫とは、主観的な行動規範である道徳と客観的な行動規範である法を弁証法的に止揚したものである。つまり、前者のみでは一般的な規範たりえないが、後者のみでも自発的な行動を促さない、それゆえ両者を備えた人倫においてこそカントの言う自由=自律が実現する。その人倫の萌芽は家族にあり、市民社会の段階を経て、両者を止揚した国家において最高形態に達する、とヘーゲルは考えたのである。私たち学生が自らの将来を展望するとき、生計を成り立たせるのは前提として、自分のやりたいことの延長上に「働くこと」を置くのが自然であろう。一方、それは同時に社会にとって意義深いことであればよいとも思う。「働くこと」の主観的意義と社会的意義のせめぎ合いの中でよりよい働き方を追求していくことが、自己を真に自由な存在として飛躍させる契機となるのではないか。(400)
〈ChatGPTくんの答え〉
ヘーゲルの市民社会論は、個人の欲望や利害を追求する場としての市民社会を考察し、ここでの「働くこと」は自己実現と社会的連帯の手段とされる。ヘーゲルによれば、働くことは単なる生計手段にとどまらず、個人が他者と関わり、自己の能力を発展させる過程である。市民社会において、労働は自己の欲望を満たしつつ、他者の欲望をも満たすことで社会的秩序を形成する。したがって、働くことは自己と社会の両方に対する責任を果たす行為であり、自由と連帯の基盤となる。労働を通じて、個人は自己の価値を社会に示し、同時に他者と協調しつつ共通善を追求する。このようにヘーゲルは、働くことを自己と社会の統合を図る重要な行為として位置づけている。
問四 以下の文章を読んで、「自己をならふ」ことが、なぜ「自己をわするること」なのか、それが「万法に証せらるる」とはどういうことか、自由に論ぜよ。(400字内)
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」(道元『正法眼蔵』)
〈GV解答例〉
曹洞宗の開祖である道元は、ひたすら坐禅に打ち込む只管打坐を通して雑念のない無私の境地である身心脱落を目指すという教えを説いた。道元においては、修証一等すなわち坐禅の修行に励むことはそのまま悟りを開いていく過程としてある。この道元の考えに従えば、坐禅に励み自己を見つめる中で、自己があらゆる煩悩にとらわれた存在であると自覚することが「自己をならふ」ことであり、その自覚に則り「自己をわするる」ことが身心脱落の教えに適うことである。その意味で「自己をならふ」ことは「自己をわするる」ことに通じていると言えるが、同時に「自己をわするる」ことは行為主体としての自我を消し去ることである。その時、自我を起点として対象を認識する二元論的見方が失われ、肥大化した自我は広大な宇宙の真理に帰一して普遍的な仏法に則り生きる存在となる。このことを道元は「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」と表現したのである。(400)
〈ChatGPTくんの答え〉
道元の『正法眼蔵』の一節で述べられている「仏道をならふといふは、自己をならふなり」という言葉は、仏道の修行が自己の本質を見極めることにあることを意味している。しかし、ここでの「自己をならふ」は単なる自己分析や自己理解ではない。自己を深く探求し続けると、次第に自己の固有性が相対化され、「自己をわするる」という状態に至る。これは、自己という固定的な存在感覚が消え去り、自我への執着がなくなることを指す。
「自己をわするる」という境地に達すると、個人の存在が万法、すなわちあらゆる存在や現象と一体化する。ここでいう「万法に証せらるる」とは、個々の存在が宇宙全体の一部であり、すべてが相互に関係し合うという真理に気づくことを意味する。仏道の修行を通じて自己を超越し、自己と外界との区別を超えた境地に達することこそが、仏道の真髄であり、道元の教えが示す「証し」なのだ。