問一 倫理(哲学)を「教える」ことはできるか? このことについて自由に論ぜよ。(400字内)

 

〈GV解答例〉
『論語』の「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という一節が答えを示唆している。倫理や哲学は、人の生き方や物事のあり方についての本質を追究する営みである。そのうち、現代の課題に対しても示唆に富む普遍性を備える先人の思想が知識としてパッケージされ、現代人に届けられるのだ。現代の課題は過去を引き継ぎながら形成されるため、徒手空拳で挑むのは愚劣であり、その点知識を「教える」ことには一定の意義がある。ただし、例えば孔子に始まる儒家思想は身分制度と家族主義を前提としており、ジェンダー平等のような喫緊の課題に有用性をもちえない。それでも抑圧の装置として私たちの意識に巣食う障壁を逆説的に炙り出すことはできよう。全ての思想が文脈依存的である以上、それらが立ち上がる過程を注視し、他の思想と比較検討することで思考を鍛え、自らの文脈に適用しようともがくことが、倫理の学びを画竜点睛となすのである。(400)

 

〈ChatGPTくんの答え〉
倫理(哲学)を「教える」ことができるかについては、教える対象が「知識」か「行動」かに依存する。まず、倫理に関する概念や理論は、他の学問同様に講義や書物を通じて知識として教えることが可能である。例えば、功利主義やカントの義務論といった倫理学説は、論理的に説明し、理解を促すことができる。 しかし、倫理とは単なる知識の伝達ではなく、行動に基づく実践でもあるため、その意味では「教える」ことには限界がある。倫理的行動を身につけるためには、自らの経験や内省が不可欠であり、単に理論を知っているだけでは不十分だ。教師は導き手として指導はできるが、学ぶ側がその教えをどう解釈し、実生活でどのように適用するかは個人の自由意志に委ねられる。 結論として、倫理は知識としては教えられるが、その実践においては、学習者自身の経験や自己理解が重要な役割を果たすため、完全に「教える」ことは難しいと言える。

 

問二 ゴータマ・ブッダの死とイエス・キリストの死について、その意味の違いを論ぜよ。(400字内)

〈GV解答例〉
ゴータマ・ブッダは、輪廻や解脱といった古代インドの宗教的な枠組みを批判的に継承しながら、独自の方法で悟りを得る道を追究し、その教えを説いて衆生の救済を図った。ブッダの死は、煩悩の完全な滅却であり、最高度の悟りの完成を意味したが、その死により人間ブッダの生き方は信徒にとっての具体的な指針となった。すなわち、上座部仏教ではブッダの修行者像がたどられ、また救済者ブッダの解釈から大乗仏教が発展した。一方イエスは、当時のユダヤ教の形式化に対して改革者として行動したが、最終的には十字架の上で処刑される結果になった。その後、神の子イエスの死はすべての人の原罪をあがなう贖罪の行為であり、それゆえ人は信仰によってそれに応える義務があるという神と人間との新たな契約が結ばれたとの解釈が広まった。またイエスはその死より三日後に復活したとされており、そのことで信者の内面にイエスが普遍的規範として生きることとなった。(400)

 

〈ChatGPTくんの答え〉
ゴータマ・ブッダとイエス・キリストの死は、それぞれの教えの枠組みの中で異なる意味を持つ。ブッダの死(涅槃)は、彼が達成した悟りの延長として解釈される。生老病死という輪廻の苦しみから解放され、完全な安らぎに至るものである。彼の死は、人々に輪廻からの解脱を目指す道を示し、その到達可能性を強調している。 一方、イエスの死は、キリスト教の救済論において中心的な出来事であり、原罪からの人類救済を象徴する。彼の十字架上の死は、神と人との間の和解をもたらし、信仰によって永遠の命が与えられるという希望を示す。また、イエスの復活は死に対する勝利を表し、信者に新しい生命を約束する。 このように、ブッダの死は個人の悟りと解脱に焦点を当て、イエスの死は神との関係の修復と永遠の命を中心に据えている点で、根本的に異なる意味を持っている。