〈第三問(200字要約)/解答解説〉

今回は、一橋大学の要約問題(第三問)を、誠に勝手ながら解説させていただきます。
要約問題は、形式に則った客観的な読み取りと、そこから得られる内容と本文の構造に即した表現力を問うものです。その点で、現代文における学力がストレートに試されているといえます。よって、一橋大学の受験生でなくとも、100字~200字程度の要約をして的確な添削指導を受けることは、学力養成の良い機会となるでしょう。

要約作成の基本的手順は、以下の通り。
1️⃣ 本文の表現に着目して重要箇所を抽出する(ミクロ読み)。
2️⃣ 本文をいくつかの意味ブロックに分けて、その論理構成を考察する(マクロ読み)。
3️⃣ 本文の論理構成に基づき、要約文の論理構成の骨格を決める(例えば、本文が2つのパートに分かれていれば、要約文も原則2文で構成するとよい)。
4️⃣ 骨格からもれた付加要素を、構文を崩さない程度に盛り込んで仕上げとする。

出典は大森荘蔵「知識と学問の構造」。筆者は戦後日本を代表する哲学者。200字以内で「要旨」をまとめることが要求されている。

1️⃣ ①~③段落。今、現代の科学的知識をカッコに入れて棚上げにする(a)。(植物の生長の観察)。こうした観察を長年にわたって行い、一種の実験を繰り返しても私の理解には限度がある(b)。(植物の細部)。要するに細部の観察が不可能なのであり、この細部の観察こそ科学的理解に不可欠なものなのである(c)。さらに「不透明」による限界がある(d)。(人体と大地)。

④~⑥段落。これら細部や不透明による限界がないものがある(e)。自分の心であり、その心の動きである(f)。しかし、自分ではない他人の心は全くの不透明である(g)。それにもかかわらず私は、「私に擬して」他人を理解している(h)(完全ではないが)。人間でない動物に対しても、その「心」を私に擬して理解している(i)。私に擬しての理解は、その対象が人間であるか動物その他であるかによって基本的性格を変えない─この点を見落とすと、いわゆる未開人の野生の思考、森や湖まで心あるものとする思考をアニミズムと呼び迷信じみたものとしてしまうことになるが、それは決して虚妄ではない(j)。

⑦~⑨段落。この理解方式(=何ものかを等しく「私に擬して」心あるものとして理解する方式)は、現代人にも非現代人にも共通する理解方式である(k)。ただ違いはこの理解方式を適用する対象の範囲で、未開人はこの理解方式を森や湖、時には森羅万象のすべてに適用するのに対して(l)、われわれはそれを人間だけに、時にしぶしぶ動物に、時にはとっぴなことにコンピューターなどに適用するのである(m)。(⑦段)

この適用範囲の違いは、現代人が事物のあらゆる細部を不透明な事物の内部に至るまで物として完全に理解できる、と信じていることからくる(n)。事物は物としての理解方式で了解できると信じるがゆえに、私に擬しての心的理解方式は不用であり誤りである、と考えるのである(o)。(⑧段)

それに対していわゆる未開人には事物の細部と不透明物の内部の観察が不可能である(p)。そこでそれらを理解しようとするならば、彼らにとって最も透明な理解方式、「私に擬して」理解方式をとることしかない(q)。(⑨段)

⑩段落。それを現代人が、現代の眼から見れば間違っているというとすれば、残念ながら間違っているのは現代人の方である(r)。なぜならば、滔々と流れる水や、森をざわめき渡る風を「心ある生き物」として理解することは現代の眼から見ても何の間違いでもないからである(s)。(現代人は水をH2O分子の集まりとし理解する一方、「生き物」としても理解する)。現代科学の定義と感覚での「生物」と、彼ら(未開人)の定義と感覚での「生き物」が一致しないのは、(イギリス人のブルーと日本人の青とが違うように)単に意味の違いであって(t)、一方が正しく他方が誤りだというのではなく、また相互に矛盾するということではない(u)。(例)。

2️⃣ 本問は「要約しなさい」ではなく、「要旨をまとめなさい」という要求である。主張とその論拠を中心に本文を再構成する。

本文の最終的な主張(結論)は、最終⑩段落の(r)(u)と(j)より「「未開人」の野生の思考を虚妄だと見なすのは誤りである」(A)ということである。この主張を導くために、前述の内容を「道具立て」として後述の内容に繰り込みながら、核心に迫るという叙述になっている。つまり、①~③段落で「科学的知識に頼らない場合の(a)/細部と不透明による理解の限界(b)(d)」について述べ、④~⑥段落で「その「限界」にあてはまらないのが自分の心である(e)(f)」と承けた上で、「私に擬して他者を心あるものとして理解する方式(g)(h)(i)」が導出される。そして⑦~⑨段落で、「この「方式」が現代人と非現代人(「未開人」)に共通する(k)」とした上で、その方式の「適用範囲の違い(l)(m)」で両者を対比し、その違いが「何に由来するのか(n)(o)(p)(q)」を指摘するのである。

ここまでを前提とした上で、直接の根拠(s)(t)と合わせて、結論Aが示されるのが、本文全体の展開である。

3️⃣ 上の本文整理に基づき、以下の3文構成とする。
B「現代の科学的知識に基づき(a)/事物の細部を不透明な事物の内部に至るまで物として理解できると信じる現代人は(n)/私に擬して心あるものとして理解する方式を(k)/人間とそれに準じる存在に限定して適用する(m)(o)」。
C「事物の細部と不透明物の内部の観察が不可能な「未開人」は(p)/私に擬しての理解方式を(k)/森羅万象にまで適用する(l)(q)」。
D「現代人もしばしば「物」に「心」を重ねて理解することからも(s)/定義と感覚の違いからくる単なる意味の違いで(t)/未開人の野生の思考を虚妄だと見なすのは誤りである(j)(r)(u)」。

4️⃣ ①~⑥段落の要素は(a)(j)以外は直接解答に反映しないが、2️⃣で述べたとおり「道具立て」として⑦段落以降の内容に繰り込まれており、「要旨をまとめなさい」という聞き方にもかなっているから、それで十分だろう。なお、長さのバランスからCとDをつないで1文にまとめた。

<GV解答例>
現代科学の定義に基づき、事物の細部を不透明な事物の内部に至るまで物として理解できると信じる現代人は、私に擬して心あるものとして理解する方式を人間とそれに準ずる存在に限定して適用する。一方、事物の細部と不透明物の内部の観察が不可能な「未開人」は、私に擬しての理解方式を森羅万象にまで適用するが、現代人も「物」に「心」を重ねるように、単なる定義上の違いで未開人の野生の思考を虚妄だと見なすのは誤りである。(200)

<参考 S台解答例>
科学的知識に基づいて事物の徹底的な了解が可能だと信じる現代人は、自分に擬して他を理解する方式を心の世界に限定して適用する。それに対し、事物の細部と不透明部の観察が不可能な未開人はその方式を事物の世界にも適用する。しかし、事物の世界をも心ある生き物の世界とみなす未開人の捉え方を否定するのは間違いであり、両者の理解の方法の相違は定義と感覚の違いにすぎず、互いに矛盾するものではないと考えるべきである。(199)