〈本文理解〉
出典は三熊花顛『続近世畸人伝』(擬古文)。筆者は江戸時代の画家。
①段落。木曽山中に、馬夫の孫兵衛という者がいた。何某の阿闍梨が、江戸からの帰途、この孫兵衛の馬にお乗りになったところ、道の悪いところに来ると、孫兵衛は馬の荷の下に肩を入れて、「親方、気をつけてください」と言って馬を助ける。度々のことで滅多にない動作であるから、阿闍梨は「どうしてこのようなことをするのか」とおっしゃったところ、孫兵衛は「私たち親子四人、この馬に助けられて、「露の命」(傍線A)をつないでいますので、ただの馬とは思わず、親方と思って労わっております」と答え、「それで、お坊様に一つの願い事があり、ここからあちらの泉の湧く所で手を清めます時に、十念を授けていただき仏縁へと導いてください」とお願いしたところ、阿闍梨は「とても殊勝なことです」とお引き受けになった。実際その場に着いて、孫兵衛は阿闍梨を馬から降ろし、自らの手ですくった水で、馬にも口をすすがせて、その馬の「おとがひ」(傍線B)の下にうずくまり、馬と一緒に十念を受ける様子である。こうして願いを遂げ、孫兵衛はたいそう喜び、再び阿闍梨を馬に乗せて、次の駅家に到着した。阿闍梨がその賃銭をお渡しになったところ、孫兵衛はその銭の「初穂」ということで、五文を分けて餅を買って馬に食わせ、やっと孫兵衛の自宅に着いた時、馬のいななきを聞いて、馬夫の妻が出迎え、まず始めに馬に餌を食べさせた。男の子も出てきて阿闍梨をもてなした。その妻子の振る舞いも、孫兵衛に倣って真心がこもっていた。この阿闍梨に限らず、僧であれば常に賃銭の多寡に関係なく厚くもてなした。「馬に乗る人の心に任せて、馬と自分たちとの結縁にします」と孫兵衛は語ったということだ。阿闍梨は深く感じ入ってお話になるままに記す。
②段落。一般に鳥獣や魚虫の形象や天性は人間と異なるというけれども、等しく天地の間をうごめき、仏語でいうところの「法界の衆生」である。それなのに一方では、人を養ふための天物であるなどと言っている説もあるのは笑うべきだ、「はたしてしからば蚤、虱、蚊、虻のために人を生ずるやと詰りし人もあり」(傍線一)。結局、生き物の大小に従ってお互いを食べるに過ぎないけれども、農作物に害を与える獣は狩らないではいられないし、漁村の民は、他に生業がない以上、漁業を営まないわけにはいかないだろう。これらは皆、やむを得ないことであって、これを痛ましいといって、白河院が殺生を天下に禁じなさったようなことは、民にはどうであるか。ただ、生業に関わらない人は、たとえ微小な生き物であっても、これを殺したり苦しめたりすることを断ち切ることが日頃の心がけでなければならない。特に大切に思うべきは牛馬である。人を助けて重いものを背負い、遠い距離を移動し、「ひねもす」(傍線C)苦労する。それなのに老いさらばえて使い用がないといって「餌取」の手に渡してこれを殺しなどするのは、どういうつもりか。自ら牛馬に劣る心とは知らないのか。また、牛をこき使い馬を追い立てる無頼が多いのをどうしようか。私は、昔、逢坂の関の山路を進む牛車を無情にも鞭で追い立てるのを見て、
小車が巡るように巡り来る世は、今度は自分が牛となり、車を引かされて「憂し」(=つらい)と思い知るらしい
と詠んだのを、悲しいことだという人もいたが、因果応報の理を信じない人は嘲り笑うにちがいないけれど、その立場はどうであれ、思っている通りである。因果応報の理はいったん置いても、惻隠(=憐みの心を抱くこと)の心は、人のみに働いて、他の生き物にはつれないものだろうか。畜類も言葉こそ話さないが、心はかえって人よりも明敏なことがある。
〈設問解説〉問一 (語句の意味)
A.露の命→はかない命
B.おとがひ→あご
C.ひねもす→一日中
問二「はたしてしからば蚤、虱、蚊、虻のために人を生ずるやと詰りし人もあり」(傍線一)とあるが、どういう理由で詰っているのか、答えなさい(30字以内)。
理由説明問題。まず構造として「〜と詰りし」の引用の「と」がどの部分を承けるのかを明確にする。②段落は①段落のエピソードを承けての筆者による考察部。その冒頭は、生きとし生ける者、人間も含めて「(仏)法界の衆生」だという内容。それに対して、二文目は「しかるをあるいは」(=それなのに一方では)で始まるのだが、これは三文目の述部である傍線末尾の「(と)詰りし人もあり」に係る(「あるいは〜もあり」の対応に着目したい)。つまり、②段落二文目から三文目にまたがる、「人を養うための天物也などいへる説もあるは笑ふべし。はたしてしからば蚤、虱、蚊、虻のために人を生ずるや」までが引用の「と」が承ける範囲となる。この引用の部分を現代語訳すると「『人を養うための天物である』などと言っている説もあるのは笑うべき考えだ。それならば『蚤、虱、蚊、虻のために人を生じた』と言うのか」ということになる。
では、なぜここの部分が「詰っている」と言えるのか。言うまでもなく「蚤、虱、蚊、虻」とは、人などの血液を吸って生きる不快極まりない害虫である。その「蚤、虱、蚊、虻のために人を生じた」(X)は一面において真理だが、決して肯じない言い草である。ならば、肯定的な意味合いで使われる「人を養うための天物(=天が与えた生き物)」という言い方も、論理的にはX、すなわち「蚤、虱、蚊、虻を養う人」という物言いと同じではないか。こういう理由(論理)で、ある種の人々は「人を養うための天物」という生きとし生ける者を等しく尊ぶ仏教的な生命観を嘲笑う、というわけである。
〈GV解答例〉
「人を養う天物」は「害虫を養う人」と論理上同じだという理由。(30)
〈参考 S台解答例〉
この世では生き物は皆同等だ、という考えに共感できないから。(29)
〈参考 K塾解答例〉
生き物の中には、人の役に立たず、専ら害をなすものもあるから。(30)
〈参考 Yゼミ解答例〉
人以外の生物は人を養うために生じたという理屈はおかしいから。(30)
〈参考 T進解答例〉
他の生き物が人間を養うために存在するとする説は間違いだから。(30)
問三 筆者はこの文で何を言おうとしているのか、説明しなさい(50字以内)。
主旨説明問題。本文で一番言いたいことは、最後の二文「因果はしばらくおきても、惻隠の意、人のみに動きて、物のためにつれなからんや。畜類も物こそいわね、意はかへりて人よりもさときあり」に集約されている。この部分を現代語訳すると、「因果応報の理はいったん置いても、憐れみの心を抱く心は、人にのみ働いて、他の動物にはつれないものだろうか、そんなはずはない(※反語)。畜類も言葉こそ話さないが(※こそ〜已然形、→逆接)、心はかえって人よりも明敏なことがある」(a)となる。この部分を核に、「因果を信ぜぬ人は非笑(=嘲り笑うこと)すべけれど、それはとまれかくあれ、おもへるままなり」と譲歩はしているが、筆者は仏教的な因果観を肯定する立場にあることを踏まえる(b)。また、②段落の前半「只生産に預からざる人は」(c)、「殊にいたむべきは牛馬也」(d)も、aの条件として解答に加える。
以上より、「生業に関わらない場合(c)/特に牛馬のような生物は(d)/因果応報の理からも(b)/人と同じく憐れむべきだということ(a)」と解答できる。
〈GV解答例〉
生業に関わらない場合、特に牛馬のような生物は、因果応報の理からも、人と同じく憐れむべきだということ。(50)
〈参考 S台解答例〉
心のあり方や行いに対し、因果の報いがあることを忘れず、全ての生き物を人と等しく扱うべきだということ。(50)
〈参考 K塾解答例〉
生きる上でやむを得ない場合を除いて生き物を殺したり苦しめたりせず、人と同様に憐れむべきだということ。(50)
〈参考 Yゼミ解答例〉
牛馬などは人のために常に苦労して働いているのだから、それらに対して憐れみの心を抱き大切に扱うべきだ。(50)
〈参考 T進解答例〉
人間と他の生き物とを分け隔てず、殺したり苦しませたりすることなく憐みの心を持って接することが大切だ。(50)