〈本文理解〉

出典は小森陽一「吾輩は猫である」(『漱石深読』)。
 
①段落。(引用)。「吾輩は猫である」という題名そのものが小説の第一文となっている。全体と部分が相同的であることがまず明示され、小説を構成する言葉が提喩(シネクドキ)的関係におかれていることが示されている。
 
②段落。第一文は、読者に対する自己紹介になっており、この文によって読者は、「吾輩」という尊大な自称を使用する語り手に対する、聞き手の位置を選ばされることになる。この聞き手の位置を選択することは、ただちに虚構の世界の住人になることを選び取ることにもなる。なぜならこの一文を読み切った瞬間、読者は猫の言葉を理解する者になってしまうからだ。この一文によって、現実の読書は猫世界を「吾輩」と共に生きる虚構世界の住人(猫)に転換させられるのである。それはまた「読者自身が選びとっての虚構世界への参入」(傍線部A)でもある。
 
③段落。事実、「吾輩」は「車屋の黒」に対しても「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と自己紹介をし、「何猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全てえ何こに住んでるんだ」と切り返されている。この言葉が自己紹介の役割を果たしていないことがことさら明らかにされている。「吾輩は猫である」を自己紹介の言葉として受け入れた読者と、拒絶する「車屋の黒」。その意味でこの一文自体がいくつもの境界を設定する言葉であることが見えてくる。
 
④段落。そして「吾輩は猫である」という一文は翻訳の不可能性をもつきつけてくる。…
 
⑤段落。「吾輩は猫である」は「英語で何と」と言うのか。漱石自身は英語訳の「I AM A CAT」(安藤貫一訳、1906)を認めず、ヤングというアメリカ人への献辞には「a cat speaks in the first person plural, we」(※ 「一匹の猫が一人称複数形、つまり我々で話します」)という説明をしている。「吾輩」は確かに、われわれ、われらという複数形の自称であり、それが転じて尊大な自称として用いられるようになった。「『吾輩』は『I』と『we』に分裂している」(傍線部B)。…
 
⑥段落。先のヤングへの献辞で漱石は、この「we」が「regal or editional」と説明している。つまり君主か主筆の用いる言葉だというのだ。つまり「regal」な「we」とは、普通「royal we」と呼ばれるもので、君主が国家を代表する立場から公式の場で用いる人称である。また「『editional』な『we』とは、編集者、著者、講演者などが用いる人称で、それぞれ編集部、読者、聴衆などを含めた表現を指す」(安藤文人)ことになる。
 
⑦段落。「吾輩」という一人称的表現が、その二人称として「諸君」を呼び出すとすれば、「吾輩は猫である」という一文は、それまでの日常会話では用いられることのなかったbe動詞構文の翻訳語調の尊大な語りかけとして、演説会や大学の講義での語り口を連想させる機能を持っていたとも言えよう。福沢諭吉が開発した「演説」という、文明開化と富国強兵を煽り立てる明治的言説空間、全体を「代表」していることを装う、「尊大な一人称が可能であるかのように幻想をさせる言説のあり方そのものパロディ化している」(傍線部C)とも言えよう。
 
⑧段落。はたして「吾輩」が「猫族を代表」することができるのかどうか、代表すること、あるいは代理することの可能性と不可能性が、この小説の基本構造として組みこまれていることがわかる。
 
⑨段落。そして「吾輩」には「名前はまだ無い」のだ。この「吾輩」の「無名性」については数多くの議論がなされてきた。…
 
⑩段落。「名のない猫は、まさにその点において、社会に帰属しない。自由なのである」(越智治雄)と評価する読み方がある。たしかに、猫に名前がつけられるのは飼い猫の場合であって、名前がついているということは、主人と飼い猫、すなわち主人と下僕、あるいは主人と奴隷という帰属関係が結ばれているということに他ならない。
 
⑪段落。…
 
⑫段落。「第二文の『名前はまだ無い』は、いったん猫という普通名詞で限定された『吾輩』を、固有名詞をもたない無限定な特性にひきもどす。猫は喋ることによってのみ、また喋っている間にかぎって存在を許される純粋だが不安定な語り手なのである」(前田愛)という立場に立つなら、「猫の無名性は、何ものにも拘束されない自由な語り手の表徴ではなく、取るに足らない『宿なしの小猫』としてのそれなのだ」ということになる。
 
⑬段落。この「『無名性』に対する、対立するかのような二つの立場」(傍線部D)は、結果的に日本語では、用いられる文脈によって、「主体」、「主観」、「主語」、「主題」などと翻訳し分けられる「subject」という概念をめぐる論理的問題の表と裏を語っていることになるだろう。
 
⑭段落。「『吾輩』という一人称的言葉を使用して、自らのことを言語化することができるのは、明治の日本語という言語システムの奴隷となることによってはじめて可能になる」(傍線部E)わけである。同時に、「吾輩」は、「吾輩は猫である」という一文の主語として機能するのであり、そのような題名を持つ小説の主題をも表象しうるのである。
 
 

〈設問解説〉問一「読者自身が選びとっての虚構世界への参入」(傍線部A)はなぜ起こるのか。本文中から35字以内で抜き出して答えよ。

 
〈答〉
この一文を読み切った瞬間、読者は猫の言葉を理解する者になってしまうから(35)
 

問二「『吾輩』は『I』と『we』に分裂している」(傍線部B)とはどのようなことをいうのか。45字以内で説明せよ。

 
内容説明問題。前文「「吾輩」は確かに、われわれ、われらという複数形の自称であり、それが転じて尊大な自称として用いられるようになった」(X)が根拠となるが、これをそのまま答えとするのは安直に過ぎる。ここでは「吾輩は猫である」という一文の「翻訳の不可能性」が論じられており(④)、特に英語に訳す場合(⑤)、Xであるから、〈傍線部〉だとなるのである。以上を踏まえ、「日本語の「吾輩」は/英語に翻訳した場合の/一人称単数形と一人称複数形を/両方含むということ」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
日本語の「吾輩」は、英語に翻訳した場合の一人称単数形と一人称複数形を、両方含むということ。(45)
 
〈参考 S台解答例〉
「吾輩」という語は一人称複数の代名詞でありながら、同時に尊大な自称として用いられるということ。(47 ※字数オーバー)
 
〈参考 K塾解答例〉
「吾輩」が、複数形の自称だとも、全体を代表するような尊大な一人称だとも考えられること。(43)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
元来、一人称複数であった「吾輩」から、一人称単数の意味が尊大性を伴って派生したということ。(45)
 
 

問三「尊大な一人称が可能であるかのように幻想をさせる言説のあり方そのものをパロディ化している」(傍線部C)とあるが、どのようなことによってパロディ化したというのか。50字以内で説明せよ。

 
内容説明問題。傍線部一文の構造が把握しにくいが、文末を「〜とも言えよう」と揃え、同一内容を述べている前文と合わせて理解すると、要は「吾輩は猫である」(X)という一文が「明治的言説空間」(Y)をパロディ化(風刺を狙った模倣)している。そのYでは「吾輩」という一人称が用いられ、聴衆「諸君」を伴い全体を代表しているかのように装われるのだが、それは幻想にすぎない(現実的に成立しない)、というのである。そのことをXの一文が痛烈に風刺する。どういう仕方で? これが問われている内容となる。
 
根拠となるのは、直後の⑧段落。Xにおいての「吾輩」は「猫族を代表」するかのように用いられるのだが、それは幻想にすぎない(→「車屋の黒」の拒絶③)(a)。もう一つ、本文冒頭で小説の大前提について言及している箇所に着目したい。読者は、小説第一文の「吾輩は猫である」(X)という、猫による自己紹介を受け入れることで、その聴き手の位置に収まる(虚構世界への参入②)。これは「吾輩は猫である」(X)という言説の根本的な虚構性を表すものである(b)。すなわち、こうしたXの二重の虚構性(a+b)によって、Yの幻想性(虚構性)はパロディ化されるのである。以上より、「言葉を話せるはずのない猫が(b)/「吾輩」という語で猫族を代表するかのように(a)/人間の読者に語ることによって(b)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
言葉を話せるはずのない猫が、「吾輩」という語で猫族を代表するかのように人間の読者に語ることによって。(50)
 
〈参考 S台解答例〉
全体を「代表」する「吾輩」という自称を、「猫族を代表」できない語り手に使用されることによって。(47)
 
〈参考 K塾解答例〉
「吾輩」という尊大な自称が、演説などでの非日常的な翻訳調の語り口を連想させつつも、「猫」を指すこと。(50)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
複数形の「吾輩」で一人称を表し、猫族全体を代表して語りかける「演説」の語り口を読者に連想させたこと。(50)
 
 

問四 猫の「『無名性』に対する、対立するかのような二つの立場」(傍線部D)を、「…とする立場と…とする立場」のように、40字以内で挙げよ。

 
内容説明問題(対比)。「二つの立場」(⑬)がそれぞれ⑩段落と⑫段落を根拠とするのは自明。その「二つの立場」を、「対立するかのような」、「subject」の「表と裏」と筆者は見なすわけだから、同一の事柄(無名性)の対比的な現れとして、解答に示す必要がある。
 
そこで、それぞれの要素を該当箇所から抽出すると、「社会に帰属しない(x1)/自由(x2)」//「固有名詞をもたない無限定な存在(y1)/取るに足らない(y2)」となる。これらを、ともに「無名性」の説明として、かつ対比を意識しながら再構成するとよい。以上より、「社会に帰属しない(x1)/自由な主体とする立場(x2)と//社会に埋没した(y2)/匿名の存在とする立場(y1)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
社会に帰属しない自由な主体とする立場と、社会に埋没している匿名の存在とする立場。(40)
 
〈参考 S台解答例〉
帰属が曖昧で自由だとする立場とどこにも帰属しない取るに足りない存在だとする立場。(40)
 
〈参考 K塾解答例〉
社会に帰属しない自由の表徴とする立場と、取るに足りない存在の表徴とする立場。(38)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
無名性を、主人に帰属しない自由を表すとする立場と存在の不安定性を表すとする立場。(40)
 
 

問五「『吾輩』という一人称的言葉を使用して、自らのことを言語化することができるのは、明治の日本語という言語システムの奴隷となることによってはじめて可能になる」(傍線部E)というのはなぜか。90字以内で説明せよ。

 
理由説明問題(主旨)。本文の最終部にあり、主旨を問う問題と言える。文構造が「Xができるのは/Yの奴隷になることではじめて可能になる」という形式なので、「Xは/Yに依拠して成立するものだから」という形式で解答するとよい。
 
Xの内容については、「吾輩」という言葉は一人称複数形から派生した尊大な自称として(⑤)、聴き手を虚構世界に招き入れ(②)、同時に小説の主題を表象しうる効果をもちえた(⑭)、ということを指摘するとよい。そして、その小説的成功は「明治の日本語という言語システム」(Y)の「奴隷」になることで、つまり依拠することで成立したのである。
 
そのYについての記述は、⑦段落に「文明開化と富国強兵を煽りたてる明治的言説」とある。そこでの「演説」の中で、「吾輩」という尊大な自称と、それまで日常会話で用いられることのなかったbe動詞構文の翻訳語調が採用された、というのである。本文の解釈によると、漱石の「吾輩は猫である」という一文は、そうした明治的言説へのパロディ(風刺を狙った模倣)であったが(問三)、逆にそうした言説における語り口を借用することで、小説「吾輩は猫である」の成功が可能になった、というのが本問の趣旨となる。
 
以上より、「「吾輩」という語で尊大さを装いながら読者を虚構の世界に招き入れることに成功した漱石の小説世界は(X)/文明開化と富国強兵を煽りたてる明治期の翻訳語調の語り口(Y)/に依拠して成立するものだから」と解答することができる。
 
 
〈GV解答例〉
「吾輩」という語で尊大さを装いながら読者を虚構の世界に招き入れることに成功した漱石の小説世界は、文明開化と富国強兵を煽りたてる明治期の翻訳語調の語り口に依拠して成立するものだから。(90)
 
〈参考 S台解答例〉
複数形の自称を尊大な自称へと転用した「吾輩」を使用し国家に従属することで、「演説」に表象されるような明治的言説空間に身を置き、全体を「代表」する立場から語ることが可能になるから。(89)
 
〈参考 K塾解答例〉
文明開化などを煽りたてる明治期、外国語の文法が移入し、従来なかった翻訳語調に従属する言論空間においてこそ、複数形の辞書であった「話が」という語が自己を言い表し得るものになったから。(90)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
日本語には文法上の人称代名詞が存在せず、文脈に応じて代用されるものでしかないために、そのシステムなしには「吾輩」という元来複数である人称を、自己を表す単数としては使用できないから。(90)