目次
- 〈本文理解〉
- 〈設問解説〉問一「どきどきするような現実感」(傍線部(1))とは、どのようにして生じるのか、説明せよ。(三行)
- 問二「そこを支配している「近代性」」(傍線部(2))の「近代性」とはどのような意味か、わかりやすく説明せよ。(三行)
- 問三「ジャーナリズムの言葉と個人の言葉のちがい」(傍線部(3))の「ちがい」を説明せよ。(三行)
- 問四「複雑な思い」(傍線部(4))を、わかりやすく説明せよ。(三行)
- 問五「それぞれの風土の時間を近代の時計からはずして、神話的な時間に読み替えていこうとする試み」(波線部)は、どのような試みをいうのか、「近代の文学」と「口承の物語」との関係をふまえ、わかりやすく説明せよ。(五行)
〈本文理解〉
出典は津島佑子の随想「物語る声を求めて」。筆者は小説家で、父は太宰治。
①段落。口承で伝えられた物語の世界はなぜ、私を魅了するのだろう。
②〜④段落…
⑤段落。試しにこうして、子どものころを思い出すと、そこには口承の物語がふんだんに生きていたんだな、と改めて気がつき、驚かされる。…
⑥段落。子どものころの世界は、音とにおいと手触りとでできあがっているということなのだろうか。
⑦段落。母親の気分次第だったと思うけれど、夜、寝る前に、私も母親に話をしてもらっていた。レパートリーの少ない人だったから、桃太郎の話と、ヤマンバの話ぐらいしか記憶に残っていない。…幼稚園に通いはじめると、キンダーブックをもらえたので、絵本にもなじみはじめていた。けれども、そこにどんなおもしろい話が書いてあっても、母親の口から聞く話ほどには、「どきどきするような現実感」(傍線部(1))がなかった。
⑧段落。ヤマンバの話では、母親の話から誘い出されて、どこだかわからない山の風景が浮かび上がり、そこを歩く馬子と馬の姿、そしてそれを追いかけるヤマンバの姿がシルエットとして現れる。そして馬子が逃げ出し、ヤマンバが髪を振り乱し、追いかける。馬子やあ、待てえ、馬子やあ、待てえ。このヤマンバの声が私の頭と体に反響して、私はやがて眠気に誘われていく。
⑨段落。山の稜線を走りつづけるヤマンバと馬子のシルエットは、その声の反響と共に、私の日常の一部になっていた。それは家のどこか、今のどこかをひたすら走りつづけているのだ。
⑩段落。そのように、子どもは物語の世界を直接、体に受け入れて生きてしまう。だから、どんなことよりも興奮するし、その経験が子どもの人生を形づくってしまうから、こわいといえばこわい。
⑪段落。子どものころの経験を文学で表現するという例は、珍しいものではない。むしろ、詩でも、小説でも、ありふれたテーマだと言えるだろう。けれども、そこで表現される子どもの世界は「無垢」あるいは「無知」の象徴として描かれている場合が多い。…小学生のころ、学校の優等生たちが読んでいた「赤い鳥」( ※ 理想的な子どもを育む童話や童謡を創作し、普及させるため、鈴木三重吉により創刊された雑誌) 系の話のなんと、私にはつまらなかったことか。子どもの本能で、「そこを支配している「近代性」」(傍線部(2))をかぎ分けていたのかもしれない。言葉が近代の論理できれいに整理され、描かれている人物たちも「近代的」論理性のなかでしか生きていない。
⑫段落…
⑬段落。口承の物語は決して、現代の私たちと切り離された、異質な世界ではない。そのことを忘れてはいけないのだと思う。今の時代は確かに、紙芝居や見世物小屋など消えてしまい、町に響く物売りの声も少なくなってしまった。…
⑭段落。けれども、親たちは自分の子どもに物語を相変わらず、語りきかせていると思うし、子守唄も歌っているに違いない。…
⑮段落。近代の文学と口承の物語とは、「ジャーナリズムの言葉と個人の言葉のちがい」(傍線部(3))だと言えるのかもしれない。個人の言葉の場合は、ひとりひとりの顔が見える言葉なのだ。家族や地縁に支えられている言葉でもある。だからこそ、地方の風土、習慣、伝統がそこでは生きつづけ、それを確認するための道具にもなっていく。
⑯段落。一方の近代の文学は、印刷術と共に発達した新しい分野で、血縁、地縁を超えて、自分の意見を発表できるという魅力から、活版印刷の普及は急速に新聞、そして文学と言うジャンルを作り出していった。けれどもそのためには、幅広い人たちに理解できる言葉が必要になり、共通語が作られていく。つまり、人工の言葉を使うという約束事を守ることが前提となり、それは言うまでもなく、近代国家という新しい枠組みとも、歩みを共にしている。
⑰段落。こうした近代の発想に私自身も育まれている。今さら、過去の地縁、血縁の世界に戻ることはできそうにない。もし、現在の小説が充分に力強く、魅力にあふれた作品に恵まれつづけているのなら、今までの近代的文学観を守って書きつづければいいようなものなのだが、実情がそうではなくなっているので、さて、どうしたらいいものか、と私たちは考え込まざるを得なくなっている。
⑱段落。かなり前から、ラテン・アメリカの世界で「マジック・リアリズム」と呼ばれる、その風土に昔から生きつづけた神話的想像力と近代の小説とを結び合わせた不思議な小説が出現しはじめて、日本の読者をも魅了した。つづけて、カリブ海の島々から、土地の言葉と植民宗主国のフランス語がごたまぜになった、今まではいかにも教養のない、出来損ないの言葉だとされてきた言葉を小説に活かして、その風土の想像力を描く「クレオール文学」と呼ばれる小説も現れはじめた。ほかにも、「それぞれの風土の時間を近代の時計からはずして、神話的な時間に読み替えていこうとする試み」(波線部)は、世界中ではじまっている。
⑲段落。こうした流れを一言で言えば、近代が見失ってきたものをなんとか取り戻したいと言う人間たちの欲求なのにちがいない。そこにはもう一つ、近代の学問がとんでもない古代の口承文学の世界を見事に読み解いてくれたという「大発見」も手伝っているのかもしれない。その成果を考えると、私はいやでも「複雑な思い」(傍線部(4))にならずにはいられなくなる。
〈設問解説〉問一「どきどきするような現実感」(傍線部(1))とは、どのようにして生じるのか、説明せよ。(三行)
内容説明問題。傍線部一文は「…そこ(キンダーブック)にどんな面白い話が書いてあっても、母親の口から聞く話ほどには、どきどきするような現実感がなかった」となるので、傍線部は子どもが母親から聞く「口承の物語(a)」がもたらすものである。さらに、傍線部の後、⑧⑨段落の具体的記述を挟んで、⑩段落「そのように、子どもは物語の世界を直接、体に受け入れて生きてしまう(b)/だから、どんなことよりも興奮するし…」の「興奮」が「どきどき」と対応する。そのabをベースに、間の⑧⑨の具体的記述「母親の声から誘い出されて…山の風景が浮かび上がり…ヤマンバの姿がシルエットとして現れる(c)/そして馬子が逃げ出し…ヤマンバが追いかける…このヤマンバの声が私の頭と体に反響して(d)」を参照するとよい。以上より、傍線部の「現実感」のニュアンスが出るように留意して、「口承の物語において(a)/語り手の声が物語の中の情景を読み手の心に立ち上げ(c)/体に響くその声に導かれ、聞き手も当事者として巻き込みながら(b)/物語が進むことで生じる(d)」と解答できる。
〈GV解答例〉
口承の物語において語り手の声が物語の中の情景を聞き手の心に立ち上げ、体に響くその声に導かれ、聞き手も当事者として巻き込みながら物語が進むことで生じる。(75)
〈参考 S台N師解答例〉
口承の物語では、子どもは語り手の肉声を通して物語の世界を身体に直接受け入れ、日常 の一部として自身の人生を作づくるほどの経験に興奮することで現実感が生じる。(77)
〈参考 S台解答例〉
物語を語る声に誘発されて聞き手の視覚的イメージが想起され、さらに身体感覚に直接訴える物語世界が現実の生活と不可分の関係になることで生じる。(69)
〈参考 T進解答例〉
母親という、自らと確かなつながりを持つ親しい存在である人間の言葉を通して物語を語り聞かされるなかで、語られた世界を直接体に受け入れ、それが五感の全てに働きかけていくうちに生じる。(79)
問二「そこを支配している「近代性」」(傍線部(2))の「近代性」とはどのような意味か、わかりやすく説明せよ。(三行)
内容説明問題。「対視点からの作問」である。「そこ」=「赤い鳥」系の話、を支配する「近代性」について、主題である「口承の物語」との対比を念頭におきながら具体化すればよい。「赤い鳥」については、作問者による「注」があるので、それに従うとよい。すなわち「理想的な子どもを育む童話や童謡を創作し、普及させるため…(a)」を参照する。また、これは「赤い鳥」系の話とは別だが、傍線部と同段落の前部「そこ(→近代文学)で表現される子どもの世界は「無垢」あるいは「無知」の象徴として描かれている場合が多い(b)」も併せて考えるとよい。さらに、傍線部の直後「言葉が近代の論理できれいに整理され、描かれている人物たちも「近代的」論理のなかでしか生きていない(c)」を踏まえる。
一方で「口承の文学」は、問一で押さえたように「体に反響」するもので(d)、また⑬段落より「現代の私たちと切り離された、異質な世界ではない(e)」。つまり「口承の文学」が「感覚に即した/日常の延長」にあるのに対し、「近代の文学」は「理想として規格化された(ab)/概念的な構成物(c)」という側面が強いのである。以上より「日常と地続きで聞き手の感覚に訴える口承の物語とは対極の(de)//理想的あり方として規格化された「子ども」像に読み手を収束させることを企図した(ab)/近代文学の論理性(c)」と解答できる。
〈GV解答例〉
日常と地続きで聞き手の感覚に訴える口承の物語とは対極の、理想的あり方として規格化された「子ども」像に読み手を収束させることを企図した近代文学の論理性。(75)
〈参考 S台N師解答例〉
日本の近代文学における子ども向けの本は、子どもを純粋な存在、教育すべき対象とみて国家の理想通りに育もうとする、近代国家の論理に従うものであったという意味。(76)
〈参考 S台解答例〉
近代日本の童話は、子どもを無垢で無知な存在とみる近代の子ども観に基づき、近代国家の共通語としての日本語で、合理的に描かれているという意味。(69)
〈参考 T進解答例〉
無垢で無知な存在として措定された子どもの理想的な教育のために創作された日本の近代の童話に通底する、近代国家の制定した人工的な共通語を表現媒体として、物語の論理的な整合を実現する特性、という意味。(97)
問三「そのときそのときの支配の言葉を販いで生きのびてゆく生きかた」(傍線部(3))をわかりやすく説明せよ。(三行)
内容説明問題。「近代の文学」と対応する「ジャーナリズムの言葉」については、⑯段落「印刷術と共に発達(a)/血縁地縁を超えて…幅広い人たちに理解できる言葉(b)/共通語(c)/人工の言葉(d)/近代の国家…とも…歩みを共にしている(e)」を参照する。「口承の物語」と対応する「個人の言葉」については、⑮段落「ひとりひとりの顔が見える言葉(f)/家族や地縁に支えられている言葉(g)/地方の風土、習慣、伝統がそこでは生きつづけ(h)」を参照する。以上、対比が明確になるように言葉を改め、できるだけ要素をそろえて、「前者は印刷術の発達に伴い(a)/国家を覆う一般性を備えた(be)/人工の共通語であり(cd)//後者は風土・習慣・伝統の生きる(h)/地縁血縁に支えられた(g)/語り手の個別性を表す言葉である(f)」と解答した。
〈GV解答例〉
前者は印刷術の発達に伴い国家を覆う一般性を備えた人工の共通語であり、後者は風土・習慣・伝統の生きる地縁血縁に支えられた語り手の個別性を表す言葉である。(75)
〈参考 S台N師解答例〉
前者は、地縁・血縁を超え、国家内で幅広く理解される人工の共通語である書き言葉であり、後者は、家族・地縁に支えられ、風土、習慣、伝統を確認する、対話的な即興の話し言葉である。(86)
〈参考 S台解答例〉
前者は近代文学に用いる、共同体を超え広く意見を発表するための人工的共通語で、後者は口承文学に用いる、共同体で培われた各人固有の言葉である。(69)
〈参考 T進解答例〉
印刷術の進展に伴い誰もが表現主体となりうるなかで普遍的な理解の必要から近代国家が制定した人工的な共通語と、地縁や血縁といった確かな関係の中で用いられて風土や伝統といった地方性を保持する言葉との違い。(99)
問四「複雑な思い」(傍線部(4))を、わかりやすく説明せよ。(三行)
内容説明問題。直接的に「複雑な思い」を導くのは「その成果を考える」ことである。「その成果」とは、「マジック・リアリズム」や「クレオール文学」のような文学的革新(→問五)が「近代の学問がとんでもない古代の口承文学の世界を見事に読み解いてくれたという「大発見」」もあり、もたらされたということ(Y)である。そのYが、なぜ「複雑な思い」に帰結するのか?Yと矛盾するXという状況が前提にあるからである。そのXについては、近いところで傍線部と同じ最終段落1文目「こうした流れを一言で言えば、近代が見失ってきたものを何とかして取り戻したいという人間たちの欲求なのにちがいない」が手がかりとなる。「こうした流れ」というのは先述した近年の文学的革新(→口承文学の復活)のことだが、その背景に「近代が見失ってきたもの」の回復欲求があるという。その「近代が見失ってきたもの」というのは、言うまでもなく「近代の文学」と対比される「口承の物語」である。当然、それは問二・問三でも考察した通り、「近代の文学」=「文学の規格化・標準化」と対立するものであり「規格化・標準化」が進めば文学の「地域性・日常性」は弱まっていく。さらに筆者は、自らも「近代の発想に…育まれている」と認めた上で、「現在の小説が充分に力強く、魅力にあふれる」ならいいが、「実情がそうでなくなっている」とジャッジするのである(⑰)。
このようにたどるならば、筆者の「複雑な思い」の内実とは、「近代化に伴う言葉(と感性)の規格化(⑯)が/文学を日常から遠ざけ(⑬)/その衰微を招いた(⑰)」(X)、しかしその一方で「近年の口承文学の復活は(よりによって)近代の学問の成果だと認めないわけにはいかない(⑲)」(Y)、その割り切れなさを「複雑」としているのである。以上、「XだがYという思い」と解答をまとめた。
〈GV解答例〉
近代化に伴う言葉と感性の規格化が文学を日常から遠ざけその衰微を招いたが、近年の口承文学の復活は近代的手法の成果でもあると認めざるをえない、という思い。(75)
〈参考 S台N師解答例〉
近代が見失ってきたものを取り戻そうとする試みが、古代の口承文学の世界を解読した近代の学問的発見によるという逆説的事態に、筆者は両義的な感情を抱くということ。(78)
〈参考 S台解答例〉
近代が見失った神話的・風土的想像力を取り戻そうとする文学的試みが、古代の口承文学を読み解いた近代の学問によってもたらされたことへの違和感。(69)
〈参考 T進解答例〉
均質性と普遍性とを追求する近代が見失ってきた、風土に根付いた口承文学の神話的創造力の回復への試みが、現代では不可解な口承文学の近代の学問による解読を踏まえているという皮肉な事態への何と言い難い思い。(99)
問五「それぞれの風土の時間を近代の時計からはずして、神話的な時間に読み替えていこうとする試み」(波線部)は、どのような試みをいうのか、「近代の文学」と「口承の物語」との関係をふまえ、わかりやすく説明せよ。(五行)
内容説明問題。傍線部自体の換言の前に、「マジック・リアリズム」と「クレオール文学」に共通する特徴を、設問要求(ヒント)に沿って把握する。ともにの⑱段落の記述、前者は「その風土に昔から生き続けた神話的想像力と近代の小説と結び合わせた不思議な小説」、後者は「土地の言葉と植民宗主国のフランス語がごちゃまぜになった…言葉を小説に活かして、その風土の想像力を描く」を参照するとよい。ここから両者の共通点として分かるのは、言葉などにおいて「近代の文学」の手法を利用しながら、その風土に合致した「口承の物語」を再現しようとしている点である。特に「近代の文学」はその「一般性(普遍性)」に「口承」にない強み(と弱み)があったが(⑯)、それをも取り込むことによって地球の裏側、日本の読者も魅了し、世界中の文学的潮流にもなっているのである(⑱)。以上、問三での考察も踏まえて、解答の前半を「一方で地縁血縁を超えて広い読者に訴える一般性に秀でた近代の文学の言葉と手法を利用しながら(⑯)/地域の風土に根付いた口承の物語の伝統に則り(⑮)」とする。
次に傍線部自体を具体化する。ポイントとなるのは「近代の時計」と「神話的な時間」を対比的に説明することだ。ただ、前者についての直接的な記述は傍線部以外に皆無なので、後者から検討して前者の自明性についても具体化していくしかなかろう。その後者についても「その風土に昔から行き続けた神話的想像力」「風土の想像力を描く」としかない。ここから分かるのは、神話についてはその風土に即して地域に語り継がれたもの、ということだろう。そこから想像力を逞くし、物語が展開するのである。そして、その物語は「近代の小説」という形式をまとい、筆者の強調することに沿うならば「口承の物語は決して、現実の私たちと切り離された、異質な世界ではない(⑬)」ということになるはずだ。以上より「神話的な時間」とは「神話的世界とそれを想像する基点となる現実世界とを往復しながら進む時間(環流する時間)」と概ね理解していいはずである。一方で「近代の時計」とは「過去から未来へ一方的に進む時間/現在を生きるように仕向ける時間」かつ「近代の要請(→規格化・標準化)に相応する客観的で統一的な時間」となるはずである(→「近代の時間」の「特殊性」については、人類学をベースにした文章でたびたびお目にかかるので、常識的な理解にまで高めておくのがよい)。以上より、解答の後半を「現在を中心に一方的・統一的に進む近代の時間軸を無視し/神話的世界と現実世界を自在に行き来する文学を創造する試み」とした。
〈GV解答例〉
一方で地縁血縁を超えて広い読者に訴えかける一般性に秀でた近代の文学の言葉と手法を利用しながら、地域の風土に根付いた口承の物語の伝統に則り、現在を中心に一方的・統一的に進む近代の時間軸を無視し、神話的世界と現実世界を自在に行き来する文学を創造する試み。(125)
〈参考 S台N師解答例〉
近代の文学が守ってきた文学観における近代国家の論理から離れ、共通語を前提とせず、血縁・地縁に支えられ、地方の風土・習慣・伝統を確認するための前近代的な口承の物語を現代において再評価する。これによって、力強く魅力にあふれた作品を書こうとする、現在の文学における試み。(132)
〈参考 S台解答例〉
共同体固有の言語による口承の物語の中で育まれてきた風土的・神話的想像力を近代合理主義的な発想で否定するのをやめ、近代合理主義とは異なる発想として評価し、共同体を超えた人工的共通語を用いる近代の小説として再生していく試み。(110)
〈参考 T進解答例〉
表現と理解の普遍性を追求して近代国家が制定した人工的な共通語で書かれて論理的整合性を誇る「近代の文学」が力強さと魅力を失った今、近代が駆逐した、風土に密着して伝統を担保し、地縁や血縁といった濃密な人間関係において特定の個人の言葉として語られた「口承の物語」の持つ神話的想像力を、近代文化との融合の中で文学において回復しようとする試み。(167)