〈本文理解〉

出典は黒井千次「聖産業週間」。筆者は「内向の世代」の作家(他に古井由吉、小川国夫など)。

(前書き) 怠惰で仕事に対して冷笑的な態度をとってきた会社員田口運平は、ある日から突然仕事に猛烈な情熱を示すようになる。次の文はその心境の変化の経緯を記した田口の手記であり、その心境の変化のきっかけとなった田口の息子の行動を記した部分から始まる。

1️⃣…子供達は取組合いを始めていた。隣家こ男児と組み合っているのは我が子だった。私は、我が子が勝つ事を念じつつ、それを見守っていた。小柄ではあるが敏捷な隣家の男児に、しかし、我が子は押し倒され、組み敷かれたのかその姿は塀の陰に見えなくなっていた。…次に見えた時、我が子の顔は、半面がべったりと黒い砂で覆われていた。それは不気味な顔であった。…我が子が隣家の男児を追いかけ始めるのと、周囲が声を揃えて我が子を怪獣だと囃したてるのとは、殆ど同時であった。しかし、我が子が負けた口惜しさから、泣きながら隣家の男児を追おうとしたのは事実だった。怒れ、追え、組み敷け、と私は身体の中に熱い声をこもらせて我が子を見守った。砂で半面を覆われた我が子の顔には、しかし同時に曖昧で気弱な表情が見られた。…我が子は三周は曖昧な表情のまま隣家の男児を追い続けた。その表情から、急激に屈辱の色が失せていくのが見られた。怒りの力が退き、周囲の声に身を任せ、自らを強い怪獣として隣家の男児を追う誇らしさの中に堕していく様が私にはありありと見てとれたのである。私には、それが許し難かった。…その怒りに熱中することなく、自らの全能力を振り絞ってその怒りに賭けることなく、その怒りを曖昧な他のものにすり替えたことが許せないのだ。誤魔化したことが許せないのだ。

しかし、我が子に対する私の怒りは、そのままの熱さをもって、突如、私自身に対する怒りに転化していた。

2️⃣ 思えば、私は常に、最もそう在りたいものの傍らに立ち続けていたような気がするのである。その生の瞬間における何事かへの熱中に身を投ずることなく、常に「瞬間を相対化し、時間を手段とする」(傍線部(1))ことによって生きて来たように思われるのである。子供の時は少年になる為に、少年の時はより上級の学校に進む為に、そしてささやかな政治運動に参加した時は学問と運動のいずれとも決め難く。そして結局大学の後半は就職のために存在し、今は? その為に今が準備の段階であるという重い目的は存在しない。今こそ私は最もそうありたいものの真只中に在らねばならぬのではないか。それは今のこの仕事にしかないのではないか。賭けることを避け、熱中を逃げているのは、私自身ではなかったか。仕事に対する取組みの後ろめたさを、傍観的態度を取ることによって誤魔化していたのに過ぎぬのではなかろうか。私の中には、今にして思えば、絶ゆることもない熱中への〈飢え〉があった。…誤魔化しを重ねながら、潜在する〈飢え〉をあやしあやし、私は今日まで生きて来たといえる。「手すりは切れた」(傍線部(2))。最早、自らの力で支えて進む他はない。意識のどこかで、私は常にそれを感じ続けて来たといえる。

3️⃣ 私の中に遠い潮騒のように響いて来る一つのイメイジがある。単純で素朴なイメイジが。そのイメイジが誕生したのは、私が今の生活に身を投じ、この先、現在というものを充たす外に、先に招いている重い目的等とは存在しないと感じ始めてからではなかろうか。それは、人間の意識が草のように健やかで、石のように強固であった時代における労働のイメイジである。全ての筋肉の力を振り絞り、扱いにくい農具をあやつり、土を起こし、種子を振り蒔き、草を刈り、羊を殖やし、干魃には天を仰いで雨を乞い、嵐には地に伏して神を求め、それ等の中にある物のように確実な労働のイメイジ。人間が自らの生存と繁殖のために汗することが労働であるのするならば、今日の私の仕事の中にも、どこか一点、単純で豪快な労働のイメイジに繋がるものがあって良いのではなかろうか。…デスクワークに限定されている私達の仕事において、個々の仕事の手応えは、極めて抽象的なものに限定されてしまう。しかし、結果はどうであれ、それを製作していく過程そのものに、〈私はここで生きている〉という「樹液の様にみずみずしいかつての労働のイメイジ」(傍線部(3))が、一点、光って良い筈ではなかろうか。

4️⃣ 斯くして、私は、突然の不幸に見舞われたのである。何故ならば、熱中によって凝結して行く自己を通して此処に今在ることの意味を確かめんとする行為はあまりに危険と犠牲の多い賭けであるから。第一に、熱中が私を捉えることに失敗するならば、私は遂に何事も確かめ得ることなく、「決定的に自己の傍らに立って生き続けねばならぬ」(傍線部(4))から。第二に、もし私が熱中に突入し得たとしても、私の労働の過程そのものが、ある遠い潮騒の響きのような遥かなる労働のイメイジにただ一転すら繋がり得ぬものであるとするならば、私の熱中そのものは何処へ彷徨って行けば良いというのか。第三に、もしも私の労働が曾ての単純豪快な労働の中に繋がっていくものであることが確認され得たとして、その後に来る、重い確認の上に立つ日々は、輝かしくはあってもあまりに厳しく困難な日々であることは明らかであるから。第四に、この賭けそのものが、安寧なる我が環境においてどのような風波を呼び、どのように高価なものにつくか、ほぼ見通しがついているからである。
しかし、賭けは為されたのだ。「半面砂に覆われた我が子の顔の気弱な変貌が、私の怒りに火を放ったのだ」(傍線部(5))。ここまで来てしまった以上、これを成し遂げぬ訳にはいかぬであろう。今、私は何者であり、私は何によって生きるのか、を自らに明らかにする為に。

この賭け、又は熱中のみを唯一の方法とする実験を名付けて、私は、〈聖産業週間〉と呼ぼう。

〈設問解説〉問一 「瞬間を相対化し、時間を手段とする」(傍線部(1))はどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。「瞬間を相対化し(A)/時間を手段とする(B)」と分け、特に「相対(→絶対ではない/比べて見る)」と「手段(↔️目的)」に注意して言い換える。加えて、2️⃣のうち、「今は?」の前の部分と「今は?」の直後「その為に今が準備の期間であり、待機の時であるという重い目的は存在し(C)(ない)」の部分に解答範囲をしぼる。「今は?」の前が「就職前」、後が「就職後」(→問二)の心境となる。
Aは、傍線前の「私は常に、最もそう在りたいものの傍らに立ち続けていた/その生の瞬間における…何事かへの熱中に身を投ずることなく」を、「今この時々の関心事に/熱中することを避け(←相対化)」と縮約する。Bは、傍線後ろの「子供の時は少年になる為に…」以下とCを参考に、「直結する未来の目的を満たすために/現在の時間を犠牲(←手段)にする」とまとめる。

<GV解答例>
今この時々の関心事に熱中することを避け、直結する未来の目的を満たすために現在の時間を犠牲にすること。(50)

<参考 S台解答例>
人生の時々に最もそう在りたい事柄に熱中せず、将来の目的の準備と待機の時だと誤魔化すということ。(47)

<参考 K塾解答例>
将来の目的に資するものとしてのみ現在を位置づけ、今ここに在ることに没入することの危険を冷静に避けること。(52)

問二 「手すりは切れた」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

内容説明問題(比喩)。「手すりは切れた」という比喩の意味する内容を一般的な表現に直して表現することと、「どの地点」で「切れた」のかを明確にすることが求められる。問一と分けて、2️⃣「今は?」の後が基本的に解答範囲となる。

まず「地点」については傍線に続く2文が決め手となる。すなわち、「手すりは切れた」(傍線)「最早、自らの身体を、自らの力で支えて進む他はない」と続き、その2文を「意識のどこかで、私は常にそれを感じ続けて来た」(2️⃣末文)の「それ」が承ける。ならば、「感じ続けて来た」というのは「就職して/その先の目的が存在しなくなって」以来、「感じ続けて来た」ということであり(←2️⃣「今は?」以後)、「熱中への/潜在する/〈飢え〉」がありながら、その〈飢え〉を就職してからも「傍観的態度を取ることによって/誤魔化し」続けてきたのだ。ところが、前書きと1️⃣にあるように「息子の行動→息子への怒り」が「私自身に対する怒り」に転化し(→問五)、「誤魔化し」が隠せなくなり「仕事への熱中」を促しているのである。

ここで間違ってならないのは、「手すり」とは「瞬間を相対化し、時間を手段にする」(→問一)ことであり、それは「就職して以来」とっくに「切れ」ていたのである。ここまでの理解で解答のアウトラインを組むと、「就職して「手すり」が切れた後も/熱中への渇望を傍観し誤魔化してきたが/実際は(「手すりは切れ」ており)Aするしかない状況にあること」となる。「手すり」の意味するところは問一で説明したところだから簡潔に留め、残るところは「(切れて)Aするしかない」のAの内容である。これは、無論「今は?」の後、「今こそ…そう在りたいものの真っ只中に在らねばならぬ/それは…今のこの仕事にしかない」、つまり「今の仕事に熱中し自己を賭ける」ということである。

<GV解答例>
仕事に就き、未来の目的のために今を犠牲にする口実を失った後も、何事かに熱中することを渇望する内的な要求を直視せず誤魔化してきたが、実際は内的渇望に従い今の仕事に自己を賭けるしか道は残されていないこと。(100)

<参考 S台解答例>
最もそう在りたい事柄への熱中について潜在する渇望を、息子への怒りを機に自覚してしまった以上、もはや将来の目的等にすがって誤魔化しえず、現在の生活において充実を求めざるをえなくなったということ。(96)

<参考 K塾解答例>
何事かに熱中しようとする自己の内なる渇望を押し殺し、傍観者として安寧な生を得てきたことの欺瞞や疚しさに突き当たり、自己が没入すべき本源的な生に向けて、自らを賭するしかない瞬間が訪れたということ。(97)

問三 「樹液の様にみずみずしいかつての労働のイメイジ」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。3️⃣全体に渡って、「現在というものを充たす外に、先に招いている重い目的等というものは存在しないと感じ始めて」から生まれた「イメイジ」について述べている。3️⃣全体を解答範囲に定める。ここから、具体例や比喩的な表現を除いて、「抽象化・一般化」された記述を拾い構成すると、「人間の意識が健やかで強固であった時代における/生存と繁殖のために汗する/確実で/単純豪快な/製作していく過程に/生きていることを感じることができる労働のイメージ」となるが、これで果たして「どういうことか、説明せよ」という要求に答えたことになるだろうか?

具体例や比喩をそのまま解答に使うのは、記述の包括性や一般性に欠けるので「禁じ手」とされるが、一方で抽象化・一般化された記述を適切に配置したつもりで提示してみても、具体的に「何も」伝えられてないならば、やはり表現を再考する必要がある。抽象部の論理的構成が中心となる評論ならまだしも、記述が具体的で情緒性に富み象徴や比喩を多用する小説や随想では、特にそのような姿勢が求められるだろう。そもそも「具体例」や「比喩」は、「抽象的な内容」を「分かりやすくイメージさせる」ためにあるはずだ。ならば、読み取る側も「具体例」や「比喩」から「抽象」の意味するところを、恣意的にならない程度に肉付けできるはずだ。踏み込んでみよう。

傍観部に戻ると、「かつて」(A)を具体化する必要があろう。「樹液のようにみずみずしい」(B)という比喩も一般的な表現に直す必要があるが、これは直前の「という」(同格)の承ける記述「製作していく過程に〈私はここで生きる〉」(B)が根拠になる。また傍線は「~の労働のイメージ」となっているが、名詞で締めると文が硬直するので、構文を変換して「Aの時代/労働は/〈生きる〉過程であった(B)」とし、AとBを具体化する。

まずAについて。抽象部では「意識が健やかで強固であった時代」ということだが、「全ての筋肉の力を振り絞り…土を起こし…干魃には天を仰いで雨を乞い…」という具体的記述から「自然と繋がった原始的な時代」を想定していると考えられる。この時代の労働は、現代の「デスクワーク/作業の手応えは…資料の評価とか…抽象的なものに限定される」(←3️⃣)仕事と対照的に、「自然に直接的に働きかけ成果を得る」ものである。そう考えると、本文の記述「物のように確実/生存と繁殖のために汗する/単純豪快な労働」とも整合性がある。この直接性を、過程を〈生きる〉と表現しているのである(B)。以上の理解により、「自然と一体化した/原始的な時代→(労働は)自己の生存と子孫の繁栄を賭けて→自然に直接働きかけ→恵みを引き出していく過程だった」とまとめる。

<GV解答例>
人間の生活が自然と一体化した原始的な時代、労働は、人間が自己の生存と子孫の繁栄を賭けて自然に直接働きかけ、恵みを引き出していく過程であったということ。(75)

<参考 S台解答例>
人間が自らの生存と繁殖のために働くという、人間の意識がまだ健やかで強固であった時代の、生気にあふれた単純素朴で豪快な労働が想像されるということ。(72)

<参考 K塾解答例>
人間にとっての原初的な労働の姿は、現在のように仕事の結果を抽象的な基準で計るものではなく、今を生きるがためになす具体的で自然なものであるということ。(74)

問四 「決定的に自己の傍らに立って生き続けねばならぬ」(傍線部(4))はどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。「息子の行動」への怒りが自己へと転化し、田口は「仕事への熱中」から逃れられなくなった。その賭け(それは望んで得たものでもあるが)の「危険性/不幸」(四つ)を説明するのが4️⃣である。その第一の「不幸」の説明部に傍線がある。傍線は、「熱中が私を捉えることに失敗するならば」という条件を承ける帰結なので、その条件も考慮に入れる。ここでの熱中の対象は、当然「今の仕事」である。また、傍線の「決定的に自己の傍らに立って生き続けなければならぬ」というのは、2️⃣の前半(就職前)の「最もそう在りたいものの傍らに立ち続けていた」と対応している。これについては問一で考えた通り、「就職前」は「直結する未来という目的のために現在を手段としてきた」ということであった。しかし、就職して「仕事」の先に「目的」はない。その「仕事」への熱中に失敗することは、熱中する対象を「完全に」(←「決定的に」)失うことである。これが傍線部の直接的な説明となる。

ただ、「熱中する対象を完全に失う」(A)ということは「同時に」、もっと本質的な次元の「不幸」を意味するのである。4️⃣の終わりから2、3文目「私はこれ(この賭け)を成し遂げぬ訳にはいかぬであろう/今、私は何者であり、私は何によって生きるのか、を自らに明らかにする為に」を根拠にして、Aは同時に「自己の本質や人生の意味を知る機会をなくすこと」だとまとめる。

<GV解答例>
仕事に熱中できなければ、熱中する対象自体を完全に失い、自己の本質や人生の意味を知る機会もなくすこと。(50)

<参考 S台解答例>
最もそう在りたい事柄自体を失い、熱中の可能性を完全に欠いた人生を送り続けるほかないということ。(47)

<参考 K塾解答例>
傍観者的態度を捨て去るという回心の機会を逃せば、それ以降、自己の存在意義が確かめられなくなること。(49)

問五 「半面砂に覆われた我が子の顔の気弱な変貌が、私の怒りに火を放った」(傍線部(5))について、どうして「我が子の顔の気弱な変貌」が田口を怒らせたのか、説明せよ。(五行:一行25字)

理由説明問題。解答の締めの部分にあたる根拠を見つけるのは容易だろう。1️⃣の末文「我が子に対する私の怒りは/私自身に対する怒りに転化していた」がそれに当たる。ここからは、「構成」の問題になる。「我が子の行動」(A)にまず田口は「許せない」と感じ(←1️⃣)、それと「自身のあり方」(B)を重ねて、「怒り」が増幅したのである。「怒り」の理由は二段階であり、AとBは類比関係である。「怒り」の理由を聞いている訳だから、「怒り」という感情の一歩手前の感情を理由にしよう。以上より、解答のアウトラインは「我が子がAした姿に不甲斐なさを感じた上/その姿がBである自己の不甲斐なさと重なり/不快感が増幅したから(→怒り)」となる。

Aについては1️⃣の後半部を中心にまとめる。Bについては2️⃣「今は?」の後を中心にまとめるが、問二で解答した部分なのでこれを利用しながら、ABの類比が明確になるように言葉を選ぶ。以上より、A「隣家の男児に取組合いで負けた屈辱から男児を追いかけ始めた→やがて「熱中」から冷めて怒りを曖昧な表情にすり替えた(ように見えた)(→不甲斐ない)」、B「今の仕事に「熱中」することを潜在的に渇望している→誤魔化しを重ねる(→不甲斐ない)」とまとめて、アウトラインに繰りこんで完成とする。

<GV解答例>
隣家の男児に取組合いで負けた屈辱から男児を追いかけ始めた我が子が、やがて熱中から冷めて怒りを曖昧な表情で誤魔化す姿に意気地なさを感じた上、その姿が今の仕事に賭け熱中することへの潜在的渇望を誤魔化し続ける自己の不甲斐なさと重なり、不快感が増幅したから。(125)

<参考 S台解答例>
取組合いに敗れた屈辱感から相手に抱いた怒りを保てず、曖昧に他の心情にすり替えていく「我が子」の様子に怒ったことで、田口は、潜在的な熱中への渇望を誤魔化して生きてきた自身の姿を突如として自覚し、「我が子」への怒りが自身への許し難い思いへと転じたから。(124)

<参考 K塾解答例>
遊び仲間への怒りに一旦は我を忘れつつも、すぐに周囲に迎合してその怒りを曖昧に紛らわせていった息子の様が、没我的な熱中に焦がれつつも、怠惰なうちに日々をやり過ごし、自らの存在意義を賭することを恐れつづけている自身の不甲斐ないありようと結びついたから。(124)