目次

  1. 〈本文理解〉
  2. 問1「いささか面映い」(傍線部A)、「はなはだ心もとない」(傍線部B)とあるが、それぞれの辞書的な意味が分かるように別の言葉で言い換えなさい。
  3. 問2「そもそも「教養」という言葉が世間で使われるときの、ある種の「胡散臭さ」」(傍線部C)とあるが、この「胡散臭さ」は何によって生じるのか、80字以内で説明しなさい。
  4. 問3「理性と教養が邪魔しない限り」(傍線部D)とあるが、この場合「邪魔」するというのはどういうことか、15字以内で答えなさい。
  5. 問4 (空欄補充)
  6. 問5「あまつさえそこに「大義」なるものを主張することさえ厭わない」(傍線部E)とはどういうことか、説明しなさい。(三行)
  7. 問6「西欧近代の罪、あるいは功績の一つは、こうした状況に異を唱えることでした」(傍線部F)とあるが、「こうした状況に異を唱えること」が、どのような点で「罪」になり、また「功績」にもなるのか、簡潔に説明しなさい。(四行)
  8. 問7「この「慎み」は、宗教を起源とする道徳や、理性の厳しい作用の結果としての倫理とは少し違った、より広い次元での、欲望の抑制装置に付された名前であるように思われるのです」(傍線部G)とあるが、筆者は「慎み」をどのようなものとして捉えているのか、説明しなさい。

 

〈本文理解〉

出典は村上陽一郎『エリートと教養』。
 
①段落。教養について、私は単独の書物も含めて、すでに色々と書き散らしてきた、という思いがあります。…とりあえずは、あまり問題のないところから整理をしておきましょう。
 
②段落。先に、大学から教養学士を頂いて「面映い」と書きました。なぜ思えば良いのか。教養学などという学問領域はないのに、それが学士号になっている、という変則自態が気になることが、その理由の一つでもあるのですが、「そもそも「教養」という言葉が、世間で使われるときの、ある種の「胡散臭さ」」(傍線部C)とでも呼びましょうか、それが「面映さ」の主因でもあります。その「胡散臭さ」は、インテリとかエリートといった言葉にも、往々にしてつきまとう感覚でもあります。その感覚は、一方では、インテリやエリートでない大衆からのやっかみ半分の揶揄であると同時に、インテリ層に属する人々が往々にして大衆に対してとる優越的な姿勢、今風に言えば「上から目線」が、社会のなかに紡ぎだす違和の然らしむるところに違いありません。…後で述べるように、実は私は「理性と教養が邪魔しない限り」(傍線部B)、人間はサルにも劣ると本気で信じていますが。
 
③段落。『大衆の反逆』という名著で知られるオルテガ・イ・ガセットは、エリートとは、大衆よりも自分が優れていると自任するような輩ではなく、大衆よりも自分に対してより重い義務を課す人間である、という意味のことを述べています。それは、まさしくその通りで、教養も積めば積むほど、自らに厳しくなる、と考えるべきだと思います。
 
④段落。なぜ理性と教養が邪魔をしなければ、人間はサルより劣ると考えるのか。…人間は、本能が壊れた哺乳動物である、という私の仮説をまず出発点に置きます。一般に、哺乳動物は、自らに与えられた欲望に対して、それらを抑制する本能を具備していると考えられます。…
 
⑤段落。しかし人間はどうでしょう。一発の爆弾で、十万人を超す同じ人間の仲間を、「あまつさえ、そこに「大義」なるものを主張することさえ厭わない」(傍線部E)。生き物にとって、最も大切なことである、子孫を、残す行為でも、本来の目的に適わない、小児から獣までをも欲望の相手にし、そこにも「人間性」を認めるべき、と主張する。…本来なら、本能が抑制しているはずの欲望の「過剰な」発揮を、人間は「人間性」という「大義」を持ち出すことによって、正当化しているのではないか。…
 
⑥段落。では、人間は、そうした「人間性」なるものに、一切歯止めをかけてこなかったか、と言えば、そんなことはありません。原始社会においてさえ人間は、人間を超えるものの存在と、その存在が求めると思われる欲望の抑制習慣を作り出してきました。それは、社会制度としての宗教に発展し、そこから放恣な欲望の発散を防ぐ方途が、社会のなかに構築されました。…基本的に「道徳」、あるいは面倒ですからここでほとんど同義とみなした上で、「倫理」は、人類史上、長らく宗教に依存してきた過去があります。…
 
⑦段落。「西欧近代の罪、あるいは功績の一つは、こうした状況に異を唱えることでした」(傍線部F)。…カントが少なくとも哲学上何とか達成しようとひたすら努力をしたことの一つは、道徳の基盤を宗教から切り離し、それを人間の理性に求めることでした。
 
⑧段落。…少なくとも一般的には、現代社会は「世俗化」された社会、言い換えれば宗教に依存しない社会ですから、倫理や道徳の基盤を、宗教に求めず、人間理性に求めることは、決して不自然でも、不当でもないはずです。
 
⑨段落。というわけで、教養はさておいて、「理性(が生み出す道徳的命令)が邪魔をしなければ」人間はサルにも劣る、という主張の合理性は、こうした議論からも裏付けられると思います。
 
⑩段落。そして「教養」という概念の少なくとも一部は、ここで言う「理性の戒め」を実行するための根源として働くと私は考えています。…「教養がある」ことの意味の一つは、何事にも「慎みがある」ということなのではないでしょうか。野放図な欲望の発揮を慎む(ことによって、理性が命ずる道徳律をも遵守しようとする)ための原動力としての教養を考えることは、間違っていないと私は考えます。そして「この「慎み」は、宗教を起源とする道徳や、理性の厳しい作用の結果としての倫理とは少し違った、より広い次元での、欲望の抑制装置に付された名前であるように思われるのです」(傍線部G)。
 
 

問1「いささか面映い」(傍線部A)、「はなはだ心もとない」(傍線部B)とあるが、それぞれの辞書的な意味が分かるように別の言葉で言い換えなさい。

 
〈GV解答例〉
A→少し照れくさい
B→とても頼りない
 

問2「そもそも「教養」という言葉が世間で使われるときの、ある種の「胡散臭さ」」(傍線部C)とあるが、この「胡散臭さ」は何によって生じるのか、80字以内で説明しなさい。

理由(原因)説明問題。傍線部を含む一文の直後に「その「胡散臭さ」は、インテリとかエリートといった言葉にも、往々にしてつきまとう感覚でもあります(a)」とあり、さらに「その感覚は、一方では、インテリやエリートでない大衆からのやっかみ半分の揶揄である(b)/と同時に/インテリ層に属する人々が往々にして大衆に対してとる優越的な姿勢…が、社会のなかに紡ぎだす違和(c)/の然らしむるところ」とある。ここから問いに対する端的な答えは「…揶揄(b)と…違和(c)(によって生じる)」と導くことができる。

 
あとは、「教養」の「胡散臭さ」の原因を問うている訳だから、aより「教養」は「インテリ/エリート」と並行しているものと捉え、b・cの説明と「教養」をそれぞれ結合させてまとめる。また、bについては「大衆」の側に、cについては「インテリ層」の側に、落度があることも踏まえる。
以上より、解答は「教養を欠く大衆のインテリ層に対するやっかみ半分の揶揄や(b)/教養を鼻にかけたインテリ層のとりがちな大衆に対する優越的な姿勢が社会のなかに紡ぎだす違和感(c)/により生じる」となる。
 
〈GV解答例〉
教養を欠く大衆のインテリ層に対するやっかみ半分の揶揄や、教養を鼻にかけたインテリ層のとりがちな大衆に対する優越的な姿勢が社会のなかに紡ぎだす違和感により生じる。(80)
 
〈参考 S台解答例〉
「教養」という言葉は、インテリやエリートという言葉と同様に、大衆に劣等感を感じさせると同時に、大衆を見下すような優越的な姿勢を感じさせ、大衆の違和感を招くこと。(80)
 
〈参考 K塾解答例〉
教養のない大衆からのやっかみ半分の揶揄から生じるとともに、教養を持つとされる人々が往々にして大衆に対してとる優越的な姿勢が社会の中に紡ぎだす違和から生じる。(78)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
大衆が教養のある人を妬むことで生じると同時に、教養のある人が大衆を見下すような優越的な態度をとるために、そういう態度に多くの人が違和を感じることによって生じる。(80)
 
〈参考 T進解答例〉
教養があるとされる人々に対する、そうでない大衆からのやっかみ半分の揶揄と、その人々がしばしば大衆に対してとる優越的な姿勢が社会のなかに紡ぎ出す違和。(74)
 

問3「理性と教養が邪魔しない限り」(傍線部D)とあるが、この場合「邪魔」するというのはどういうことか、15字以内で答えなさい。

内容説明問題。15字という短い字数の中で「邪魔」という動作に限定して説明することを求めているとも受け取れるが、たいして意味のある解答にもならないので(→S台解)、ここでは「理性と教養」が「何を」邪魔するか、を加えて解答したい。

 

まず「理性と教養が邪魔」をするのは「人間」のケースであり、仮に「邪魔」をしなければ「人間はサルにも劣る」と筆者はみなしている(②)。なぜ「理性と教養が邪魔しなければ、人間はサルより劣る」のか、という問いは④段落でも繰り返され、それに対して筆者は、一般に哺乳動物は自らに与えられた「欲望」を「抑制する本能を具備している」が、人間は「本能の壊れた哺乳動物である」という仮説を出発点とする。ここからの展開を追うと、人間は「本能」の代替を「宗教(⑥)」や「理性(⑦)」に求めた、そして「理性の戒め」を遵守するための原動力として「教養」がある(最終⑩)、というのが筆者の論点である。特に人間の「欲望」というのは「過剰(⑤)/放恣(⑥)/野放図(⑩)」なものであるから、「世俗化(⑧)」が進んだ現代、「理性と教養が邪魔」しなければ、「人間はサルにも劣る」となるのである。

 

以上より、解答は「欲望の/過剰な発揮を/妨げること」となる。このように本問は、一貫した本文の読み取りができていることを試すという意図を含むのである。

〈GV解答例〉
欲望の過剰な発揮を妨げること。(15)
 
〈参考 S台解答例〉
気楽に接することを妨げること。(15)
 
〈参考 K塾解答例〉
放恣な欲望の発散を防ぐこと。(14)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
野放図な欲望の発揮を防ぐこと。(15)
 
〈参考 T進解答例〉
野放図な欲望の発揮を慎むこと。(15)
 

問4 (空欄補充)

 
→(オ) →(エ) →(ア)
 

問5「あまつさえそこに「大義」なるものを主張することさえ厭わない」(傍線部E)とはどういうことか、説明しなさい。(三行)

内容説明問題。「あまつさえ(剰え)」が「その上、おまけに」という意味だと分かれば簡単。解答構文は「aのみならずb」という形になる。
 
「主張する」の主体は他の「(哺乳)動物」と比較された「人間」。その「人間」は、傍線部の直前にあるように「一発の爆弾で、十万人を超す同じ人間の仲間を、一瞬に殺すことも平気(a)」で「あまつさえ」、「そこに「大義」なるものを主張(b)」することも厭わない、という。aについては一般化、bについては、傍線部直後の具体例を挟んだ「人間は「人間性」という「大義」を持ち出すことによって、正当化している」という記述を踏まえて説明するとよい。
以上より、解答は「人間は/他の動物にも類例のない大規模な同族殺戮を平気で行う(a)/のみならず/それを人間性の発露という大義を持ち出し正当化すること(b)/までためらわないということ」となる。
 
〈GV解答例〉
人間は、他の動物にも類例のない大規模な同族殺戮を平気で行うのみならず、それを人間性の発露という大義を持ち出し正当化することまでためらわないということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
人間は、平気で同じ仲間を一瞬にして大量に殺すばかりか、本来なら本能が抑制しているはずの欲望の過剰な発揮を人間性という大義を持ち出して正当化することもためらわないということ。(86)
 
〈参考 K塾解答例〉
大量の仲間を瞬時に殺すことが平気であるばかりか、そうした行為を人間性という考え方によって正当化することさえもためらわないということ。(66)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
仲間であるはずの人間を平気で大量に殺戮するだけでなく、その行為を、領土の防衛や国民の安寧といった理屈を持ち出し、人間として行うべき大切なこととして正当化しさえするということ。(87)
 
〈参考 T進解答例〉
他の哺乳動物と違って、欲望が本能に抑制されず過剰に発揮されるため、同じ人間を大量に一瞬で殺すことが平気なだけでなく、そこに「人間性」を見出して正当化していること。(81)
 

問6「西欧近代の罪、あるいは功績の一つは、こうした状況に異を唱えることでした」(傍線部F)とあるが、「こうした状況に異を唱えること」が、どのような点で「罪」になり、また「功績」にもなるのか、簡潔に説明しなさい。(四行)

内容説明問題。「こうした状況に異を唱えること(X)」が、どのような点で「罪」になり(a)、「功績」になるか(b)、について説明するにあたり、まずはXについて具体化する必要があるだろう。「こうした状況」というのは、傍線部の前段(⑥)に戻り「放恣な欲望の発散を防ぐための「道徳/倫理」を宗教に依存してきたこと」であり、それに「異を唱えること」とは、傍線部の段落(⑦)末文より「道徳の基盤を宗教から切り離し、それを人間理性に求めること」である。以上を合わせて、Xは「西欧近代が/人間の過剰な欲望の発揮を抑制する/道徳の基盤を/宗教から人間理性に変更したこと」となる。
 
では、Xのどのような点が「罪」で「功績」なのか?注意すべきなのは、傍線部以下(⑦⑧)「功績」については言及されていても、「罪」についての直接の言及は見当たらないということである。つまり、「罪」の内容は自明の裡にあり、また、ここでの「罪」はキリスト教的な意味での「罪」である(そうでなければ「罪」という言葉を使う必然性はない)、ということである。となれば、道徳の基盤を宗教から切り離し、人間の理性なんぞに求めるということは、それ自体神への反逆に他ならない、その点で「罪」と言えるのである(a)。ここがクリアできれば、裏面の「功績」については、⑧段落「現代社会は「世俗化」された社会、言い換えれば宗教に依存しない社会ですから、倫理や道徳の基盤を、宗教に求めず、人間に求めることは、決して不自然でも、不当でもないはずです」を踏まえるとよい。要は「世俗化」は宗教道徳の機能を限定的にするが、その代わりを「理性」が担うということである(b)。
 
以上より、解答は「Xは/神への背徳という点で「罪」になる一方(a)/世俗化した現代社会において倫理・道徳を機能させている点で「功績」にもなる(b)」となる。
 
〈GV解答例〉
西欧近代が人間の過剰な欲望の発揮を抑制する道徳の基盤を宗教から人間理性に変更したことは、神への背徳という点で「罪」になる一方、世俗化した現代社会において倫理・道徳を機能させている点で「功績」にもなる。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
欲望を抑制するために倫理が宗教に依存してきた状況を批判することは、欲望の過剰な発揮を人間性とする考えに歯止めをかけることができなくなる点で「罪」になり、宗教に依存しない世俗化された現代社会において、倫理の基盤を人間の理性に求める点で「功績」になる。(125)
 
〈参考 K塾解答例〉
倫理を宗教的基盤から切り離し、その基盤を人間理性に求めたことは、野放図な欲望の発散を抑制する力を弱める点で罪になり、世俗化された西欧近代において宗教に依存しなくなったという点で功績にもなる。(95)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
道徳や倫理が宗教を基盤としてきたことを批判することは、超越存在への信仰によって放恣な欲望を抑制できなくなったという点で「罪」になり、道徳や倫理の基盤を、信仰をもない人も含めたすべての人間がもつ理性に求めた点で「功績」になる。(112)
 
〈参考 T進解答例〉
道徳や倫理を宗教に依存してきた過去に異を唱えることは、放恣な欲望の発散を防ぐ社会制度としての宗教の役割を否定する点では罪となるが、倫理や道徳の基礎を宗教ではなく人間理性に求めた点では功績となる。(97)
 

問7「この「慎み」は、宗教を起源とする道徳や、理性の厳しい作用の結果としての倫理とは少し違った、より広い次元での、欲望の抑制装置に付された名前であるように思われるのです」(傍線部G)とあるが、筆者は「慎み」をどのようなものとして捉えているのか、説明しなさい。

内容説明問題(主旨)。傍線部の中から一部を取り出し、それを主題化して問う九大で頻出の設問形式。ここでは「慎み」を広い文脈で捉えると同時に、傍線部での位置づけも解答の構成要素として必須となる。まず「この慎み」の指示内容を遡ると「「教養がある」ことの意味の一つは、何事にも「慎みがある」ということなのではないでしょうか」(最終⑩)という記述が拾える。すなわち、ここでの「慎み」は本文の主題である「教養」との関連で、「教養のある状態が指示する行為規範」と捉えることができる(a)。
 
そして、この「教養(とそれが指示する「慎み」)」というのは、すでに問3で検討したように「本能の壊れた哺乳動物(④)」である人間が、その代替として「放恣な欲望の発散を防ぐ」ために発展させた「宗教」(⑥)、さらに「世俗化」された近代社会における「人間理性」(⑧)と機能的に等価なものとして筆者が想定するものである(正確には、「教養」は「理性の戒め」を実行するための根源として働く、としている)(⑩)。それを一文に集約したのが、本文の結部にあたる傍線部Gなのである。
 
このことを踏まえた上で、再度傍線部Gを「慎み」との関連で整理すると、まず「宗教を起源とする道徳」は、近代の「世俗化」の過程で、「欲望の抑制装置」としての機能が限定的となる(b)。次に、それに代わる「理性の厳しい作用の結果としての倫理」も、その厳しさゆえに現代の自由な社会(大衆社会)においては、それだけで機能するのは難しい、ということだろう(自明性の解釈)(c)。そうした中で「教養」こそが「理性の戒め」を支え、それが指示する「慎み」こそが、現代の大衆社会において「より広い次元」での「欲望の抑制装置」として期待できる、というのが筆者の最終的な主張なのである(d)。
 
以上をまとめて、解答は「教養のある状態が指示する行為規範であり(a)/宗教が道徳の基盤でなくなり(b)/それに代わる理性の厳しい作用も限定される現代の大衆社会において(c)/人間の過剰な欲望の発揮をとどめうる、より汎用性の高い規範となるもの(d)」となる。
 
〈GV解答例〉
教養のある状態が指示する行為規範であり、宗教が道徳の基盤でなくなり、それに代わる理性の厳しい作用も限定される現代の大衆社会において、人間の過剰な欲望の発揮をとどめうる、より汎用性の高い規範となるもの。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
教養は、過剰な欲望に対する理性の戒めを実行するための根源として働き、教養を積めば積むほど自らに厳しくなり、野放図な欲望の発揮を慎むことになるので、教養を原動力とした「慎み」は宗教や理性とは異なり、より広いレベルで欲望を抑制する機能があるというもの。(124)
 
〈参考 K塾解答例〉
世俗化した現代社会には不適合な宗教を起源とする道徳ではなく、人間理性による厳しい倫理を日常的な場面で行わせるための、本能の壊れた人間の野放図な欲望を抑制するための原動力となるもの。(90)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
欲望の発散を、宗教的道徳は超越存在の啓示によって、倫理は理性によって抑制する。一方、教養によって身につく「慎み」は、道徳律の遵守を日常で実践する原動力であり、他者に対する優越的な態度を自分に禁じるような、厳しく謙虚なあり方てある。(115)
 
〈参考 T進解答例〉
人間は本能が壊れているため、代わりに道徳や倫理で欲望を抑制する必要があり、その基礎は世俗化された現代では宗教ならぬ理性に求められるが、理性の命令を実行する原動力となるのは教養であり、教養のこの働きを通して欲望を抑制する仕組みが慎みである。(119)