〈本文理解〉
出典は吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』。
①②段落。大学の知が「役に立つ」のは、必ずしも国家や産業に対してだけとは限らない。神に対して、人に対して、地球社会の未来に対して──大学の知が向けられるべき宛先はいくつものレベルの違いがあり、その時々の政権や国家権力、近代市民社会といった臨界を越えている。この多層性は、時間的なスパンの違いも含んでいる。中長期的なスパンでならば、工学系より人文社会系の知の方が役に立つ可能性が高い。「人文社会の知は役に立たないけれども大切」という議論ではなく、「人文社会系は長期的にとても役に立つから価値がある」という議論が必要なのである。
③④段落。概していえば、「役に立つ」ことには「二つの次元」(傍線部(1))がある。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型だ。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手である。(具体例/新幹線の速度/ビッグデータの処理)。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げる。しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元がある。(具体例/友人や教師の助言→インスピレーション→目的・価値軸の発見)。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたい。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践である。文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてである。
⑤~⑦段落。古典的な議論では、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーによる「目的合理的行為」と「価値合理的行為」という区分がある。前者が、ある目的に対して最も合理的な手段連鎖を組み立てていくことであるのに対し、後者は、何らかの目的に対してというよりも、それ自体で価値を持つような活動である。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたのは、プロテスタンティズムの倫理は価値合理的であったのだが、その行為の連鎖がきわめて目的合理的なシステムである資本主義を生み出し、やがてその価値合理性が失われた後も自己転回を続けたという洞察である。そこで強調されたのは、目的合理性が自己完結したシステムは、いつか価値の内実を失って化石化していくのだが、目的合理的な行為自体がその状態を内側から変えていくことはできない、という暗澹たる予言であった。この今なお見事な古典的洞察に示されるように、目的遂行型の「役に立つ」ことは、そのシステムを内側から変えていくことができないので、目的や価値軸そのものが変化したとき、一挙に役に立たなくなる。
⑧⑨段落。(価値の軸は不変ではない。具体例/1960年代の成長期→2000年代以降の成熟期)。
⑩⑪段落。概して理系の学問は、与えられた目的に対して最も「役に立つ」ものを作る、目的遂行型の知であることが多い。そして、そのような手段的有用性については、文系よりも理系が優れていることが多いのは事実だ。もう一つの価値創造的に「役に立つ」という点ではどうか。目的遂行型の知が短期的に答えを出すことを求められるのに対して、価値創造的に「役に立つ」ためには、長期的に変化する多元的な価値の尺度を視野に入れる必要がある。文系の知は、総体的に長い時間的スパンのなかで対象を見極めようとしてきた。これこそが文系の知の最大の特徴だと言え、だからこそ、文系の学問には長い時間のなかで価値創造的に「役に立つ」ものを生み出す可能性がある。
⑫段落。また、多元的な価値の尺度があるなかで、その時その時で最適の価値観に転換していくためには、それぞれの価値軸に対して距離を保ち、批判していくことが必要である。そうでなければ、「一つの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できない」(傍線部(2))ということになるだろう。
⑬⑭段落。価値の尺度が劇的に変化する現代、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくない。そうしたなかで、いかに新しい価値の軸をつくり出していくことができるか。あるいは新しい価値が生まれてきたとき、どう評価していくのか。それを考えるには、価値の軸を多元的に捉える視座をもった知でないといけない。現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要がある。その視点がなければ、新しい創造性は出てこない。ここには文系的な知が絶対に必要だから、理系的な知は役に立ち、文系的なそれは「役に立たないけれども価値がある」(傍線部(3))という議論は間違っていると、私は思う。主に理系的な知は短く役に立つことが多く、文系的な知はむしろ長く役に立つことが多いのである。
〈設問解説〉問一 (漢字)
(a)連鎖 (b)空疎 (c)催 (d)劇的 (e)視座