〈本文理解〉

出典は宇野邦一『政治的省察 政治の根底にあるもの』。

①段落。国家とは何か、と考えはじめると、なぜ国家について考えようとするのか同時に問わざるをえない。いたるところで、〈国民主権〉を前提とするはずの国家が、分厚い制度や機関としてあり、実はあいかわらず国民から遠いところに、そびえたつようにしてある。国家とは〈私たち〉であり、〈私たち〉のものであり、〈私たち〉の思考、意志、力が形成する政体であり、公共性であるはずだが、実感としては、そんなふうに存在していない。むしろ統治(政府、行政)の機関から、立法、司法の機関そして「軍隊」ではないと言われる「自衛隊」まで、たくさんの官庁の建築や、そこに出入りする公務員や、「国」の行方をリードするという政治家たちの集団が、まず「国家」のイメージとして浮かんでくる。そのような機関、制度を構成する人間たちの活動が国家であり、それは少なくとも名目上は、隅々まで法的に規定されている。(カール・シュミットの引用。②段落まで)。

③段落。しかし国家とは、単にそのような国の制度を構成する、比較的イメージしやすいヒトやモノの集合ではなく、それを全体として規定する法的体系そのものでもない。確かに、はるかそれ以上のものを意味するようなものだ。

④段落。たとえば、〈日本〉という固有名のついたひとつの集合体(国)は、ある種の歴史的観念とともに浮かび上がってきて(「国体」のようなものとして)ほとんど幻想レベルにまで膨れ上がっている。しかし「幻想的」ということはまさに、それほど考えられたものではなく、内実もないかもしれないことを含意している。地図の上の日本列島に、あたかも長い間同じ系統に属する集団が、同じ自意識をもって存在したかのような仮構が無前提に受け入れられ、根拠があいまいなままに〈自己同一性〉観念を構成している。…実は教科書的知識の水準でも、歴史の過程を遡って考えてみれば、まず日本という固有名が何を示すかということさえも、少しも自明ではない。しばしばそれは現代の意識や歴史的観念を、あいまいなままに、あいまいな過去の表象に投影したものでしかない。国家をめぐる同一性の観念は、必ず〈歴史〉を参照するが、このとき〈歴史〉も、同一性の観念も、「無数の断片をつぎはぎした器用仕事的、モザイク的工作の成果でしかない」(傍線部※)。

⑤段落。このことに関する議論はすでにおびただしく行われてきて決着がついているはずなのに、実は収拾がつかないので、いま私はこの議論に改めて参入しようとは思わない。とにかく国家とは、幻想的に肥大した有機的自己同一性の観念にうらうちされている。なぜか人間は、そのような幻想としての国家をいまも必要とするようだが、それがほんとうに必要なのかわからない。観念(表象)と現実的機構の混交である「それ」が何か、慣行どおりの枠組みを逸脱して考え続けなければならない。国家とは何よりも政治的なものに見えるが、政治学の枠組みからも離れて問わなければならないことがあるのだ。

⑥段落。制度にもモノにもヒトにも還元できない国家があるとすれば、確かに政治的次元を超えて問わなければならないのだ。その「還元不可能なもの」とは、幻想とかイデオロギーとか理性の形態(ヘーゲル)というべきなのか。それらはどれも観念や思考の領域にあるが、単に観念・思考とはみなされず、ほとんど実体であるかのようにみなされている。…

⑦段落。…吉本隆明は、「国家は国民のすべてを足元まで包み込んでいる袋みたいなもの」という観念を、日本を含むアジア的な共通の国家観としていたが、いわゆるナショナリズムにとって、国家とはいたるところで、制度やヒトやモノ以上のものであり続けていて、もちろんナショナリズム自体が世界的な現象であり続けている。ナショナリズムにとって国家は、単なる機構や制度以上の観念に分厚く包まれている。この観念的実体はなにかしら有機的な感情を帯び、ときにはオーラに包まれている。国家を批判し、これに抵抗する側にも、有機的な感情が形成されるはずだ。有機的な感情はそれ自体、善でも悪でもないが、これを批判的に(無機的に)見つめなければ、有機的感情どうしの諍いを乗り越えることはできない。

⑧段落。たとえば国家を「暴力装置」として定義することは、すでに古典的アプローチといえる。「国家とは、ある一定の領域の内部で…正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」(マックス・ウェーバー『職業としての政治』)。これは吉本隆明が表明したような概念とは、もちろん対照的な、ほぼ実践的な定義である。…しかしほんとうは何も説明したことにはならない。…国家が、「暴力」や「権力」を所有しているならば、その所有者としての国家が何かという新しい問いが、当然新たに発生することになる。

⑨段落。要するに国家が「暴力装置」であると定義しても、まだその国家とは何かという問いは残っている。もし国家とは、ある〈装置〉そのものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないとすれば、こういう問いそのものが無意味である。しかし国家の暴力の特異性を考えてみるだけでも、すでに国家は単なる暴力装置に還元できない。その「還元できないもの」について考えるという課題はやはりなくならないのだ。国家は何ら神秘化し、精神化すべき実体ではないにちがいない。しかし現に神格化され、精神化されて、そのような精神や神秘が、あたかも国家の実体をなしているかのように機能しているとすれば、この〈実体化〉についても、そしてその〈暴力〉の作用や連鎖に関しても考える余地がある。国家の複雑化した実体と過程について、問いに的確に答えるための突破口を見つけなければならない。

問一 (漢字)

(a)従僕 (b)肥大 (c)踏襲 (d)対照 (e)既知

問二「無数の断片をつぎはぎした器用仕事的、モザイク的工作の成果でしかない」について、どのようなことをいっているのか、本文の内容を具体的にふまえて100字以内で説明しなさい。

内容説明問題。問いの要求が難しいが、そこに突破口もあるのだろう。いずれにしろ「無数の断片をつぎはぎした(A)/器用仕事的、モザイク的工作の(B)/成果でしかない(C)」の言い換えは必須だ。それを「どういうこと」ではなく「どのようなこと」と問い、わざわざ「具体的に/本文をふまえて」と断っているのは、本文の表現や内容を参考にし、傍線部の比喩的で抽象的な表現を具体化して示しなさい、ということではないか。事実、AやBの直接的な換言要素は見当たらない。たとえば、傍線部前文の「それ(日本という固有名)は現代の意識や歴史的観念を、あいまいなままに、あいまいな過去の表象に投影したものにすぎない」という内容は、AやBとは重ならないし、そもそも主語がズレている(AやBは投影した、後の作業だろう)。
まず、傍線部の主語(テーマ)は、「国家をめぐる同一性の観念と、それが必ず参照する〈歴史〉」(S)である。傍線部を含む一文の構造は、「Sは(A+B)Cだ」と単純化できよう。次に、解答の核となるA+Bを具体化する上で参考になる要素を、当該④段落以下⑥段落までを範囲として抽出する(⑦段落からは吉本隆明とウェーバーの国家の捉え方の対比のパートになる)。すると、(a)「長い間同じ系統に属する集団が、同じ自意識をもって存在したかのような仮構が無前提に受け入れられ、根拠があいまいなままに〈自己同一性〉の観念を構成している」(④)、(b)「国家とは…幻想的に肥大化した有機的な自己同一性の観念にうらうちされている」(⑤)、(c)「その「還元不可能なもの」(=自己同一性の観念⑤)とは…ほとんど実体であるかのようにみなされている」(⑥)が参照要素として浮かび上がる。(b)の「有機的」とは、語義から「各要素が関連しながらまとまりを構成している様」ということである。以上より、(A+B)Cをもとの表現から離れないように言い換えると、「無数の事象を(A1)/都合よく拾い集め(B1)/つなぎ合わせて(A2)/実体化した(B2)/結果現れる仮構にすぎない(C)」となる。これを先述のSと合わせて解答とする。

〈GV解答例〉
同じ系統に属する集団が、同じ自意識をもって存在するという同一性の観念も、それが必ず参照する歴史という観念も、無数の事象を都合よく拾い集め、つなぎ合わせて実体化した結果現れる、仮構にすぎないということ。(100)

〈参考 S台解答例〉
国家の同一性の観念もその際に参照する国家の〈歴史〉も現代の意識や歴史的観念を曖昧なままに曖昧な過去の表象に投影し、本来非連続にもかかわらず、集団に有機的な連続性の実感を与えることで成立したということ。(100)

〈参考 K塾解答例〉
日本列島に同じ集団が同一の意識を保って継続的に存在してきたという実感は、国籍法が依拠する血縁の原理や、現代の意識や歴史的観念を過去へと曖昧に投影する倒錯的手法等で都合よく仮構されたものにすぎないこと。(100)

〈参考 Yゼミ解答例〉
日本や日本人という固有名は、実は実体のないあいまいで幻想的に肥大化した観念や思考の領域にあり、歴史を伴った同一性の観念もあいまいな過去を寄せ集め、現代の視点からつくりあげた結果にすぎないということ。(99)

問三 この文章の中には大きく分けて二つの国家に対する考え方が含まれているが、それらを示し、なおかつ、筆者がそうした考え方のいずれによっても国家をとらえきれないとする理由について250字以内で記述しなさい。

理由説明問題(主旨)。「大きく分けて二つの国家に対する考え方が含まれている」の「二つ」の特定が迷いどころである。本文は、はじめに「国家とは何か」の問いに対して、2つの国家像を示している。すなわち「国家とは〈私たち〉であり、〈私たち〉のものであり、〈私たち〉の思考、意志、力が形成する政体であり、公共性であるはず」(A)と、「(実感として)統治の機関(政府、行政)から、立法、司法の機関そして「軍隊」ではないと言われる「自衛隊」まで、たくさんの官庁の建築や、そこに出入りする公務員や、「国」の行方をリードする政治家たちの集団が、まず「国家」のイメージとして浮かんでくる/そのような機関、制度を構成する人間たちの活動が国家であり、それは少なくとも法的規範によって定義する明瞭な記述が見える」(B)である。その後、本文ではシュミットがBを重視しながらも、「国家はあくまで人間の集団であり、その集団の〈統一された〉状態」(②)というAに対応する見方もしていたということが紹介される。このAとBとの分け方が一つの候補となるが、もう一つ、本文の後半部、吉本隆明の「国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもの」という観念(C)と、マックス・ウェーバーの「国家とは…正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間集団」という定義(D)との分け方も候補となる。この二つの観念や定義については、それぞれ⑦段落と⑧⑨段落でその不備についても併せて述べられるので、これを設問のもう一つの要求「いずれによっても国家を捉えきれないとする理由」(R)に当てはめれば、解答の大枠ができそうだ。

しかし、それで最初に挙げられたAとBとの対立が打ち捨てられてよいであろうか。設問要求の「この文章の中には大きく分けて二つの国家に対する考え方が含まれている」というのは、AとBの対立、シュミットの引用、CとDの対立、すべてをひっくるめて整理し、二つに分けて示せ、ということではないか。シュミットについては先述の通り、AとBの対立の中に消化できるが、それとCとDの対立はどう関連づけられるのか。そう考えると、AとCは「国家を国民全体の集合」、BとDは「統治機構に属する集団」という形で二分化できることに気づくだろう。ここで、CはAの例示となり、DはBの例示となる。

それでは、A(=C)とB(=D)の「いずれによっても国家を捉えきれないとする理由」(R)は? 本文によるとRは、③段落「(しかし国家とは)はるかにそれ以上のものを意味するようなものだ」以下(〜⑥段落)と、⑦段落(Cについて)、⑧⑨段落(Dについて)で述べられている。このうち⑨段落の「(暴力装置=Dに)還元できないもの」という表現は、⑥段落「(制度にもヒトにもモノにも)還元不可能なもの」(E)という表現と重なる。また⑦段落の「国家とはいたるところで、制度やヒトやモノ以上のもの」という表現もEと重なるし、「観念的実体」「有機的な感情」という表現も⑤⑥段落の記述と対応するものである。以上より、A(=C)とB(=D)のいずれも国家を捉えきれない理由(R)を、③〜⑥段落の記述を参照しながら、一括して示す(ここで、設問が「理由をそれぞれ述べよ」という形になっていないことも確認しておきたい)。
まず、A(=C)とB(=D)を対比的にまとめると、A「国民としての人間の集団であり/その思考・意志・力が形成する政体であり/公共性であるという/理念(←「はず」)としての国家像」、B「法的規範により規定された/行政・立法・司法・軍事における機構と制度を構成する人間の活動であるという/実感としての国家像」となる。そのABの国家像では国家を捉えきれない理由(R)は、「実際の国家は/国民の自己同一性の観念と、それが参照する歴史という過剰性を孕み(④)/それが根拠を欠いた仮構だと断じられながらも議論の収拾がつかず(⑤)/むしろ観念的実体として現実世界に作用を及ぼす点で(⑥)/両者の規定に還元できない性質を残すから(③⑥)となる。

〈GV解答例〉
一つは、国民としての人間の集団であり、その思考・意志・力が形成する政体であり、公共性であるという理念としての国家像である。もう一つは、法的規範により規定された、行政・立法・司法・軍事における機関と制度を構成する人間の活動であるという実感としての国家像である。しかし実際の国家は、国民の自己同一性の観念と、それが参照する歴史の観念という過剰性を孕み、それが根拠を欠いた仮構だと断じられながらも議論の収拾がつかず、むしろ観念的実体として現実世界に作用を及ぼす点で、両者の規定に還元できない性質を残すから。(250)

〈参考 S台解答例〉
第一に、国家はそれに属する人間集団を包み込むものであるという考え方がある。第二に、国家は一定の領域内で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体であるという考え方がある。前者は、制度、モノ、ヒトに還元できない観念に基づくものが実体化されたものであり、政治的次元を超えて問わねばならない。後者は、国家が単に暴力を集中的に所有しているとすれば、国家を単なる暴力装置に還元できず、国家とは何かという問いが残る。こうして国家の〈実体化〉についても、その〈暴力〉の作用や連鎖に関しても考える余地があるから。(250)

〈参考 K塾解答例〉
国家は、法規範の体系のもとで現実に制度を構成する人や物の集合であるという考え方があり、それを暴力装置とみなす実践的定義もなされるが、その運用の主体となる国家が何かという問いは残るうえに、国家が幻想的な共同体であるという側面も捉えられず、他方で、国家を機構や制度を超えた幻想や観念に根ざすものと見なす考え方も、観念を物象化しているにすぎず、その基盤となる思考や感情の複雑で微細な次元を捉えられないため、実体化の一方で幻想化されもする国家のありようを包括的に洞察しうる視座こそが現在求められているから。(249)

〈参考 Yゼミ解答例〉
国家とは、単なるヒトやモノの集合ではなく、それを規定する法体系や制度にも還元できない肥大化した観念にすぎないとの考えがある。その場合、実体のない物象化された国家への有機的感情に振り回されるだけで、国家そのものはとらえきれない。この考えと対照的な実践的定義として、国家を、正当に物理的暴力や権力を行使する「暴力装置」ととらえる古典的アプローチがある。その場合、国家は暴力や権力を集中的に所有している装置に過ぎず、その所有者としての国家とは何なのかという、新たに発生する問いに何ら答えを出せないから。(248)