目次
- 〈本文理解〉
- 問一「生きているものがたてる物音を、私は聞きたかったのである」(傍線部(1))について、「私」が「生きているものがたてる物音」を「聞きたかった」のはなぜだと思われるか、説明しなさい。(4行)
- 問二「ひたひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた」(傍線部(2))において、「無音の波」という表現にはどのような効果があるのか説明しなさい。(4行)
- 問三「八月九日に流さなかった涙を、私は人としてはじめて流したのかもしれない」(傍線部(3))について、なぜ「私」は「八月九日に流さなかった涙」を「人としてはじめて流したのかもしれない」と思ったのか、その理由を説明しなさい。(4行)
- 問四「私は感動して見入っている自分や、テーブルを囲む人びとが滑稽になり」(傍線部(4))について、なぜ「私」は「感動して見入っている自分や、テーブルを囲む人びとが滑稽にな」ったのか、その理由を説明しなさい。(4行)
〈本文理解〉
問一「生きているものがたてる物音を、私は聞きたかったのである」(傍線部(1))について、「私」が「生きているものがたてる物音」を「聞きたかった」のはなぜだと思われるか、説明しなさい。(4行)
問二「ひたひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた」(傍線部(2))において、「無音の波」という表現にはどのような効果があるのか説明しなさい。(4行)
問三「八月九日に流さなかった涙を、私は人としてはじめて流したのかもしれない」(傍線部(3))について、なぜ「私」は「八月九日に流さなかった涙」を「人としてはじめて流したのかもしれない」と思ったのか、その理由を説明しなさい。(4行)
まず「私」は被曝当日、異様な光景を前に人としての感情を失い、その場からひたすら逃げていた(P)。その私が今、グランド・ゼロに向かう過程で「正真正銘の被曝」を体験する。それは、被曝当日は意識に上らなかった、そしてその後も「心の奥に沈めてきた」もの(P+)、「大地の痛み」であり、パートで記述された自然を含む生命の消失の自覚であったのだ。その自覚を伴い被曝を「再体験」した時に、私は「人としてはじめて」涙を流したのである(R)。以上をまとめると「被曝当日、人としての感情を失い異様な状況からひたすら逃げ(P)/その後も体験を直視することを避けてきた私にとって(P+)/グランド・ゼロへの行程は自然を含む生命の消失という被曝の深意を再体験させるものとなったから(R)」となる。
問四「私は感動して見入っている自分や、テーブルを囲む人びとが滑稽になり」(傍線部(4))について、なぜ「私」は「感動して見入っている自分や、テーブルを囲む人びとが滑稽にな」ったのか、その理由を説明しなさい。(4行)
それでは「自分」への滑稽さの理由は?もちろん被曝者としての私は、他の見物人とは明確に立場が分かれる。しかし、それは当然だとして「私」は自分を安易に他の見物人と分けて正当化しないのである。「私」も人間の一員であり、その人間の愚行が自らに向かうだけでなく大自然の生命をも抹消した。「私は、地上で最初に核の被害を受けたのは、私たち人間だと思っていた。そうではなかった。被爆者の先輩がここにいた。泣くことも叫ぶこともできないで、ここにいた」()。これがこの小説の理解。ならば、本問でも「自分」と「テーブルを囲む人びと」を分けて答えるべきではない。「自分」は原爆に対する被害者でありながら、同時に加害の側にもある。その気づきが「トリニティ・サイト」により与えられたものであり、その責任を引き受けるところに、「私」の、すなわち筆者の矜恃を見ることができるのである。