〈本文理解〉
出典は仲正昌樹『いまを生きるための思想キーワード』。
①②段落。哲学用語の多くは、西欧の言葉からの翻訳である。もとの言葉だと哲学用語と日常語の違いがさほど大きくなくても、日本語にした時、その差が拡大することがしばしばある。その端的な例は、2010年にNHKで放送されて大きな反響を呼んだマイケル・サンデルの公開講義『ハーバード白熱教室』──オリジナル・タイトルは〈justice〉──を機に、アメリカの政治哲学のキーワードとなった”正義”だろう。
③~⑤段落。日本語の「正義」は、「善」それも神(々)とか天、宇宙の意志といった、個々の人間の思惑や利害を超越したものに由来する「絶対的な善」、あるいは、それを実現することとほぼ同義に使われることが多い。「善の化身」としての「正義の味方」は、罪のない弱者を虐げる巨大な「悪」と闘い、艱難辛苦の末に「悪」に勝利し、「正義」を実現する。「弱者」に優しい「正義の味方」には、人情の機微に敏感で、温かい心配りをするというイメージもある。「杓子定規」に「正義」の基準を押し付ける「正義の味方」はあまりいない。「正義」の「義」という字が、「義理」「忠義」「大義」などの「義」でもあるということもあって、「正義の味方」は、人間関係を大事にしそうなイメージがある。(以下略)。
⑥~⑨段落。英語の〈justice〉には「そうした人情的な意味」(傍線部(1))はあまり含まれていない。むしろ、日本語で「人情」と呼ばれているものと、対立するような意味合いさえある。(「正義(justice)」は「法」や「権利」と語源をともにする)。「「法」や「権利」と不可分に結び付いている「正義」は、ある意味冷たい」(傍線部(2))。「正義」を実現するには、個人的な感情や義理などはできる限り排し、予め決まった法的ルールに従って、問題を公正に処理することが求められる。一度結んだ契約は必ず履行し、違反者を罰するのが「正義」である。契約が「法」に則って結ばれたのであるかぎり、それを破るのは「不正義」である。(『ヴェニスの商人』の例)。
⑩~⑫段落。「法」の本質としての正義は、基本的に人間相互の契約や決まり事から生じてくるものなので、水平的である。ただ、キリスト教の教義に関わる文脈で問題になる「(神)の正義」は、全知全能の唯一神に由来するものなので、当然、人知を超えて絶対的であり、一方的に人間たちに啓示される。その意味での「正義」は垂直的であり、現代日本語の「正義」のニュアンスに近くなる。西欧の言語の日常会話では、水平的・法的な「正義」と垂直的・宗教的な「正義」が混ざり合っていることも多いが、アメリカの哲学者ジョン・ロールズの『正義論』(1971)以降、英米の政治哲学で取り沙汰されている「正義」は明らかに「前者の意味での「正義」」(傍線部(3))である。ロールズたちリベラルな論者が探求している「正義」は、共同体ごとの価値観の違いを超え、人々が普遍的に合意することができる規範、言い換えれば、その社会を共同で形成するための契約の基盤になり得るような価値中立的規範である。どのような価値観や歴史的背景を持った人々でも、そうした違いを超えて──というよりはむしろ、お互いの違いを意識しているからこそ──到達するであろう、自由や平等に関わる「正義」の原理があるというのである。
⑬段落。そうした価値中立的な「正義」の原理の発見、構築を目指すリベラル派に対して、サンデルなどのコミュニタリアニズム(共同体主義)の論客は、純粋に価値中立的な「正義」の成立は不可能であると主張した。コミュニタリアンにとっての “正義” は、各共同体が追求しているテロス(目的原理)の延長線上に出てくるものであって、決して価値中立的ではない。1980年代から90年代前半にかけて、リベラルとコミュニタリアンの間で「正義と(共同体的)善」の関係をめぐる壮大な論争があった。この論争は当然のことながら決着が付かなかった。しかし、はっきりしているのは、いずれの側も、日本語で「正義の味方」という時のような、絶対的・垂直的な「正義」を求めていたわけではないし、「正義」を “みんな” に受け入れさせるべく、人格改造のようなものを企てたわけでもない、ということだ。論争の焦点は、どういうルールならみんなが公正な(fair)ものとして受け入れることができるか、だった。
⑭⑮段落。日本で、哲学書としては異例のベストセラーになったサンデルの一般向け教科書〈Justice:What’s the Right Thing to Do?〉の邦訳タイトルは『これからの「正義」の話をしよう』であった。日本語で「これからの」というと、何となく、価値の軸が失われて混迷する世界の中で何を基準に生きて行けばいいか、その指針をサンデル先生が示してくれそうな響きがある。実際、サンデルの “正義” 論を、現代人の心の持ち方と結び付けようとするかのような議論が一部に見受けられる。生き方や心の持ち方を、特定のすぐれた教師に求めるとすれば、それは哲学ではなくて信仰である。日本の “哲学ブーム” は、往々にして、人生観とか癒しの話に落ち着きがちだが、「 “正義” 論もその道を辿ることになるかもしれない」(傍線部(4))。公正なルールを探求する、英米の「正義論」というのは、ドライで地味な議論である。「心」の奥底まで入ってきて、導いてくれるような “癒しの哲学” ではない。
〈設問解説〉 問一 「そうした人情的な意味」(傍線部(1))とあるが、どのようなことか、述べよ。
内容説明問題。広い範囲を承ける「そうした」の指示内容を特定する問題である。傍線部に続く⑥段落以下が英語の「正義」について述べているのに対し、③~⑤段落までは「正義の味方」のイメージに即して日本語の「正義」について述べている。そのパートはさらに、⑤段落冒頭の「「弱者」に優しい正義の味方には、Aというイメージもある」(並列の「も」)に着目すると、日本語の正義の「絶対性」について述べた③④段落と⑤段落に分かれる。それならば、「そうした」が承ける内容は⑤段落(日本語の正義の「人情面」について述べた部分である)に限定しなければならない。
以上より⑤段落から、「人情の機微に敏感で/温かな心配りをする」(A)と「杓子定規ではない」「人間関係を大事にする」という内容を拾い、分かりやすく説明する。加えて、これは「正義の味方」に含まれるものであることを示す。なお「「弱者」に優しい」という要素は、⑤段落冒頭文の構造から基本的に④段落の要素となるので、取り立てて強調しない。「弱者」も含めて、心配りをする、ということである。
<GV解答例>
日本語の「正義の味方」に含まれる、杓子定規に基準を当てはめるのではなく、人間関係を踏まえ、相手の事情を細かく考慮した上で、それに相応しい温かい心配りをすること。(80)
<参考 K塾解答例>
日本語の「正義」という言葉のイメージに含まれている、規定の法的基準を物事に等しく当てはめるのではなく、弱者の味方として、人情の機微に通じ、心温まる情けをかけること。(82)
<参考 T進解答例>
日本語の「正義」に含意されるような、杓子定規に善悪の基準を押し付ける姿勢とは対極にある、人間関係における機微を大切にし、弱者に常に優しい、絶対的に肯定される善としての意にということ。(91)
問二 「『法』や『権利』と不可分に結び付いている『正義』は、ある意味冷たい」(傍線部(2))とあるが、「ある意味冷たい」とは、どのようなことか、述べよ。
内容説明問題。日本語の「正義」に対して英語の「正義」が、「どういう意味で」冷たいかを指摘する。そこを踏まえると、傍線の後2文が根拠になる。つまり、「個人的な感情や感情や義理をできる限り排し/予め決まったルール(契約)に従って/問題を公正に処理する(A)」、この意味で「冷たい」のである。また、⑥段落より「人情的な意味はあまり含まれていない」を利用し、英語の正義は、Aであるため、情に冷たい面がある、とまとめる。
ここで、「冷たい」は文字通り「冷たい」のであって、「ある意味」を具体化した上で「冷たい」の方も別の言葉に置き換えてしまうと、一度たどり着いた答えからサヨナラするのではなかろうか。
<GV解答例>
「法」「権利」と語源を共有する英語の「正義」は、個人的事情を極力排し、規定された契約に従い問題を公正に処理することを志向するため、情に冷たい面があるということ。(80)
<参考 K塾解答例>
各人の権利を適切に保護するために、いかなる問題についても、法的ルールに従って公正に処理し、弱者に情けをかけたり、嫌われ憎まれている者を不利にしたりすることのない、個人的な感情や義理に流されない冷静さがあること。(105)
<参考 T進解答例>
各人の正当な権利を守るために予め決まった法的なルールに従って問題を公正に解決するので、嫌われ者を感情的に不利にせず、個人的な義理や感情、弱者への温情を排した冷静さがあること。(87)
問三 「前者の意味での『正義』」(傍線部(3))とはどのようなものか、「リベラル」と「コミュニタリアン」との捉え方の違いも含めて説明せよ。
内容説明問題。まず「前者」とは、「垂直的・宗教的な「正義」」(A)ではなく、「水平的・法的な「正義」」(B)である。これが解答の締めになる。これは、「リベラル」(X)にも「コミュニタリアン」(Y)にも共通するところで、いずれも「どういうルールなら”みんな”が公正(fair)なものとして受け入れられるか」(⑬末文)を焦点とする。違いは「みんな」の範囲である。
Xについては、⑪段より「共同体ごとの違いを超えた社会を/共同で形成するための契約の基盤となり得る/普遍的な/価値中立的規範」を志向する。一方Yについては、⑬段より「各共同体が追求する/テロス(目的意識)の延長上に/価値中立的ではない/固有の規範」を見出そうとする。ここで、Xの「普遍」に対してYには「固有」を配した。
さらに、⑩段よりAとBも対比的に説明すると、Aは「神(→上位者)から/絶対的なものとして/一方的に付与される」、Bは「成員が相互に/公正なものとして/受け入れる(⑬)」となる。「~Xにしろ/~Yにしろ/Aではなく/Bとしての水平的・法的な「正義」」とまとめる。
<GV解答例>
社会を形成するための契約の基盤となり得る普遍的な価値中立的規範を志向するリベラルの立場にしろ、各共同体の追求する目的原理の延長上に固有の規範を見出そうとするコミュニタリアンの立場にしろ、絶対的なものとして上位者から付与されるものではなく、成員が相互に公正なものとして承認し合う水平的・法的な「正義」。(150)
<参考 K塾解答例>
共同体ごとの価値観の違いを超えた価値中立的な「正義」を目指すリベラル派と、「正義」は共同体ごとの目的原理の延長線上にあるもので価値中立的ではないとするコミュニタリアンとが対立関係にあるが、いずれにも共通する、人間相互の契約や決まり事から生じる水平的・法的な「正義」のこと。(136)
<参考 T進解答例>
人知を超えた絶対的・垂直的なものではなく、人間相互の契約や決まり事による水平的・法的なルールであり、リベラルはそれを各共同体の価値観の違いを超えた普遍的て価値中立的なものと捉え、コミュニタリアンはそれを成立不可能なものとし、各共同体が追求する目的原理の延長線上に位置づけ、価値中立的ではないと捉える。(150)
問四 「 “正義” 論もその道を辿ることになるかもしれない」(傍線部(4))とあるが、なぜそのように考えられるのか、文章全体を踏まえて説明せよ。
理由説明問題(主旨)。まず、「その道を辿る」とは「人生観や癒しの話になる」ことである。サンデルら英米の「正義論」(水平的な正義(A))に即して説明するならば、前⑭段より、Aを「生き方の指針を/示してくれるものとして」(B)受け取ることである。特に「価値の軸が失われて混迷する世界(現代社会)(C)」(⑭)だからなおさらである。しかし、それは「哲学ではなく、信仰」(⑭)である。つまり、間違った受け取り方である。なぜ、そうした受け取り方になるのか? ここで全体を踏まえ、日本における「正義」は伝統的に、「絶対的・垂直的な正義(D)」(③⑩)だからである。
以上を踏まえれば、「D~日本人は/A~西欧の「正義」を/Cの中で/Bとして誤解して受け取る可能性が強いから。(→その道を辿るかも(G))」となる。DとAは対比で⑩段より、D「上位者(お上!)から/一方的に付与される/絶対的な「正義」」、A「成員が/自発的に作り上げる/水平的な「正義」」とまとめる。「一方的に」に対して「自発的に」と配した。
<GV解答例>
伝統的に「正義」をお上から一方的に付与された絶対的なものとみなす傾向が強い日本人は、共同体の成員が共存するために自発的に作り上げるものとする西欧の水平的な側面の「正義」を、価値の軸が失われ混迷する現代社会の中で、自己の生き方に資する個人的な指針を与えてくれるものとして誤解し受け取る可能性が強いから。(150)
<参考 K塾解答例>
西欧由来の哲学用語を日本語に翻訳したときには、日本語の意味と大きくズレることがあり、人間を超越したものに由来し、巨悪と闘い弱者を助ける「絶対的な善」を想起させる日本語の「正義」に慣れ親しむ日本の人々は、人間が共に生きるための公正なルールである西欧の哲学用語の「正義」を正しく理解できない。そのため、英米の政治哲学の「正義論」を誤解し、結局、混迷する現代を生きる指針や癒しを手っ取り早く与えてくれるものとして一時的に消費して終わることになりそうだから。(225)
<参考 T進解答例>
日本語の「正義」は、弱者に優しい人情的で絶対的な善としての意味で用いられるので、英米の「正義論」のように社会の基本的ルールを冷静かつ地味に議論するわけではなく、日本における “正義” 論は生き方や心の持ち方に結びついて、人生観や癒しを求める単なるブームで終わりそうだから。(134)