問三 キリスト教における「隣人愛」に対するミルの見解を述べよ。(400字内)

 

〈GV解答例〉
功利主義は、幸福すなわち快楽を最大化し苦痛を最小化する行為を結果として善とする思想である。その創始者ベンサムが幸福を量的に捉えて「最大多数の最大幸福」を実現するよう外的制裁に基づく社会設計を図ったのに対し、ミルは「満足した豚よりも不満足な人間の方がよい」として幸福を質的に捉え直すとともに、個々人の道徳心を重視して自由な社会を構想しようとした。そのミルにおいて「自分が他人にしてほしいことを他人に対して施せ」というイエスの黄金律こそが功利主義の理想的な構えである。それは、まず消極的な意味で他者への危害を抑制することで自由を最大限確保する原理となる。さらに積極的な意味では自己愛を利他精神に接続させ、人々の幸福の質をより高尚なものへと引き上げる規範ともなる。その黄金律を人間普遍に適用するのがイエスの言う隣人愛であるから、ミルにとってそれは自らの功利主義思想を完成させる上で中核となるべき規範である。(400)

 

〈ChatGPTくんの答え〉
ジョン・スチュアート・ミルは、キリスト教における「隣人愛」の教えに対して、個人の自由と道徳的自律を重視する観点から一定の評価をしていますが、同時にその教義が個人の自由に与える影響について批判的です。ミルは、隣人愛が持つ他者への配慮や善行の推奨は社会的道徳として有益であると認めつつも、キリスト教がしばしば強調する「自己犠牲」を伴う愛は、個人の幸福や自己実現を妨げる可能性があると考えています。

 
彼にとって重要なのは、個人が自らの幸福を追求する自由であり、他者への奉仕が強制的なものとなると、個人の自由と幸福が損なわれるという点です。ミルは、隣人愛が個人の道徳的選択として自主的に行われるべきであり、それが外部から強制される場合には、個人の自由が侵害され、社会全体の活力が損なわれる可能性があると警告しています。したがって、ミルは「隣人愛」の理念に対し、自由と自主性を尊重する視点から批判的な見解を持っていました。

 

問四 日本という環境のうちでつくられてきた「うち」と「そと」の区別について、サイードの「オリエンタリズム」論を参照しながら論ぜよ。(400字内)

〈GV解答例〉
サイードのオリエンタリズム論の要点は以下の通り。第一に「西洋」の外部を劣位の「東洋」とする見方は、西洋諸国が自らの植民地支配を正当化するために恣意的に作り上げた虚構である。第二に「西洋/東洋」という二元論的な見方は、それぞれの内部にある多様な実態を塗りつぶし一元化する。第三にこうした表象は劣位とされた「東洋」においても内面化され「支配/被支配」関係を補強する。以上を日本社会に当てはめて分析すると、第一に近代「日本」は、列島内部の諸国・諸階層を統合し、前近代の閉鎖的「ムラ社会」を国家に拡大して自明化した制度と言える。第二に、国内における民族的・言語的・文化的多様性は同質な「国民」に還元され、外部も「中国人」「朝鮮人」などと一元的に把握される傾向にある。第三に、日本は「西洋」を模範として急激な近代化に成功したが、今度は西洋の宗主国的視点を内面化し、周辺国や国内周縁部を劣位と見なし支配してきた。(400)

 

〈ChatGPTくんの答え〉
エドワード・サイードの「オリエンタリズム」論は、西洋が東洋を「他者」として表象し、支配するための方法論を示しました。この視点から、日本における「うち」と「そと」の区別も理解できます。日本文化では、個人や集団が「うち」(内側)と「そと」(外側)に明確に分けられ、それに基づいて対人関係が築かれます。これは、内と外の境界を強調し、外部者を「他者」として捉える傾向を生む点で、サイードの指摘する西洋のオリエンタリズムに類似しています。「うち」と「そと」の区別は、社会的な秩序やアイデンティティを維持するための手段であると同時に、異質なものを排除しやすくする文化的な枠組みです。こうした枠組みは、内と外の相互作用を制限し、時に排他的な態度を助長することがあるため、サイードのオリエンタリズム論と共鳴する部分があります。