目次
〈本文理解〉
出典は池上俊一「音と声から立ち現れる新たな歴史像」。
①②段落。洋の東西を問わず、前近代社会においては、コミュニケーションは音と声(と身振り)によってなされた。文字が一般に使われるようになった近現代においても、音と声による伝達は重要である。しかも、それらは、メッセージを伝えるためだけにあるのではなく、しばしば特別な情動的価値をもって作用してきた。各時代・地域の人びとが、身の回りの音や声を聴いて、世界や自分をどう感じ理解していたのか、その様態は歴史の進展とともに変化していこう。是非とも過去の世界の音や声の意味と効果を蘇らせてみたいものだ。しかし音や声は、その場で発せられると後には何も残らない。だから、こうした音や声の世界は、歴史学の課題のなかでも一番厄介な部類に属する。私たちとしては、文字に記された音・声関連の情報をもとに、音響の想像空間を作り上げるしかないのだろうし、領域横断的に音・声の行方を追いかけ、過去の人びとの音のコミュニティーあるいは集合的な記憶の世界に入り込んでみる「蛮勇が必要だろう」(傍線部(1))。ただし、例外的に「声が聞こえる」文書史料が残っていることもある。(15世紀イタリアの説教筆録の例)。
③④段落。産業化以前の時代においては、恒常的な騒音が少なく、まことに静かだったことだろう。そうした静謐な「地」の上に、ほんの僅かな音でも発せられると、くっきり描かれた「図」のように、鮮明に耳朶を打つ。(例)。だが、これら環境音のほかに、ヨーロッパでは中世から近代にかけて、信号音、すなわち特定のメッセージを送るための音を出す手段が非常に発達していた。ひとつは叩いて鳴らすもの、とくに鐘と鈴、もうひとつは、息を吹き入れて鳴らすラッパ類であった。
⑤~⑦段落。それぞれの地域・時代において、それらの信号音はコード化・慣習化されながら、子供が物心つく頃には重要なメッセージと感じられるようになるのであり、その「音の文法」の理解は、その内部にいる者の必須の条件ともなっていた。かつては、聖俗の権力者が、こうした信号音を発する権限を独占し、公衆に向けて上から下に一方的に鳴らされるのが通例であった。だが、その権力と結びついた「垂直的な音」(傍線部(2))の使用を逆手に取って、音の権力秩序を変更する場面もときにはあった。さらには、貴族間の一種のモールス信号としての角笛の音、農民層の連帯感を醸成する太鼓の音などは、日常の舞台で個人的・相互的な関係を結び補強する「水平的な音」(傍線部(3))と看做されよう。いずれにせよこれらの信号音は、そのときどきの時間・空間観念と不可分で、支配・被支配関係や社会的結合関係を制定する特別な力を備えた音なのであり、近代においてもこの音の力への信仰は生きつづけていた。
⑧段落。ローマ・カトリック教会、とりわけカテドラルを建設するに当たっては、音の奥深い反響にも意を用いた。そして聖歌隊の声、オルガンの音が、信徒たちを一体化させるとともに、音・声を介して一人一人を神と結びつけたのである。
⑨⑩段落。実は前近代のヨーロッパでは、(楽器の音だけでなく)人間の声も、「典礼や法手続きにおける不可欠の要素」(傍線部(4))としてコード化されていた。また戦場での鬨の声、修道院での呪いの声…など、じつにさまざまな場面において、声は人知を越えた超自然的ないしは魔術的な力を発揮したのである。こうした声の聖性ないし魔術性への信仰は、なぜ生まれたのであろうか。それは文字にもとづかない声の文化が優勢だった時代には、声に出された言葉が、まさに肉体から、力を備えた音として発出し、いわば物理的に触知しうるモノとして、人々に影響を及ぼし、偉大な力が宿っていると実感されたからだろう。それは、人々を高揚させ興奮に導き、群れなす身体を同調させ、集団の行いへと動員する。ミサや秘蹟執行、戴冠式において、決まった短い言葉を実際に声に出して叫ぶことによって、はじめて儀式は正当に完遂されると考えられていたのである。
⑪段落。文学作品も、声による伝達が主流だったときには、その声の不可思議な力の影響を免れない。テクストはつねに生成途中のものであって、歌い朗誦する演者の声のみが、その都度その場で、それに価値と権威を与えたのである。物語や詩の構造を守ってさえいれば、即興的要素も排除されない。「文字化された中世の文学作品にヴァリアントが無数にある」(傍線部(5))のは、こうした理由からである。
⑫段落。音と声の歴史学は、まだほとんど未開拓であり、洋洋たる前途が広がっている。消えてしまった音と声を蘇らせることができたら、どこまで書き連ねても平面的な文字の羅列からは見えてこない、立体的な歴史像が私たちの前に立ち現れるにちがいない。
〈設問解説〉
設問一 (漢字)
a ヨミガエ b 厄介 c 挑 d アゼミチ e 頻繁 f ケイケン g ツム h ヒツジョウ i 完遂 j 洋洋
設問二 (接続語選択)
A ウ B イ C ア D エ
設問三 傍線部(1)について、筆者が「蛮勇」と表現する理由について本文に即して100字以内で説明せよ。
理由説明問題。問い方が傍線部自体「蛮勇が必要だろう」の理由を聞くのではなく、「蛮勇」と筆者が表現する理由を聞いているのに留意する。前者なら蛮勇が「必要」な理由を答えればよいが、後者なら「蛮勇」とした筆者の表現意図を答えなければならない。なぜAを「勇」としながら「蛮」とみなすのか。
Aは直前部で「文字史料や集合的記憶から/歴史上の音や声を再現しようとする/歴史学の試み」。その音や声は、①段落より、情報伝達のみではなく「特別な情動的価値(→時代・地域に固有の世界や自己への認識)」を含むものだから、Aは歴史学にとって意義深い挑戦である(よって「勇」)。
しかし、②段落の冒頭より、音や声はその本質からして、その場で発せられると後に何も残さないものであるから、Aはまだ現実性を伴っていない(よって「蛮」)。それでもなお筆者は、最終⑫段落にもあるように、Aのあり方に今後の歴史学の方向性をみるのである。
<GV解答例>
情報の伝達のみならず時代・地域に固有の世界観や自己認識を含有する音や声を、文字史料や集合的記憶から再現しようとする試みは、歴史学には意義深いが、発した場で消える音声の性質により未だ現実性に乏しいから。(100)
<参考 S台解答例>
音や声はその場で発せられると後には何も残らないので、過去の世界の音や声の意味と効果を蘇らせるために、文字に記された音・声関連の情報や過去の人びとの集合的な記憶に対する、思いきった行動が求められるから。(100)
<参考 K塾解答例>
音や声は発せられた瞬間に消えてしまうのに、過去の世界の音や声の意味と効果を蘇らせようとして、文字に記された情報をもとに、あえて想像力によって過去の人びとの音の集合的な記憶の世界に入りこもうとするから。(100)
設問四 傍線部(2)「垂直的な音」と傍線部(3)「水平的な音」について、その対比に留意しながら、本文に即して100字以内で説明せよ。
内容説明問題。「対比に留意しながら」とあるので、その前提として両者が同じカテゴリーにあることを示した上で、その違いを端的に示す。
まず、両者は「信号音」の分類であるので、「信号音」についての説明を求める。⑤~⑦段落より、「(ヨーロッパ中世の)地域・時代/(固有の)時間・空間観念と不可分/コード化・慣習化/集団に重要なメッセージ(を送る)」を拾いまとめる。その上で、⑥⑦段落より、前者(垂直的な音)は「上から下に一方的/支配・被支配関係を制定」、後者(水平的な音)は「(階層内部の)個人的・相互的な関係を保障/社会的結合関係を制定」を拾いまとめる。
<GV解答例>
欧州中世の地域・時代において、各々に固有の時間・空間観念と結びつき暗号化・慣習化され集団内に重要な情報を伝える信号音の中で、前者は支配・被支配の一方的関係を、後者は階層ごとの社会的結合関係を確認する。(100)
<参考 S台解答例>
前者は、権力者から公衆へ向けて一方的に使われ、支配・被支配関係を制定する力を持つ音だが、後者は、日常の場で同じ階層の者同士のやりとりで個人的・相互的に使われ、社会的結合関係を制定する力を持つ音である。(100)
<参考 K塾解答例>
垂直的な音は、権力者から公衆に向けた命令として一方的に鳴らされ、支配・被支配関係を強化するが、水平的な音は、同じ階層の者同士のやりとりや連帯感の醸成などのために鳴らされ、社会的結合関係を補強する。(98)
設問五 傍線部(4)について、なぜ人間の「声」が「典礼や法手続きにおける不可欠の要素」とされていたのか、本文に即して100字以内で説明せよ。
理由説明問題。理由を構成する要素は、⑨⑩段落より3つ。A「声の人知を越えた/聖性・魔術性への信仰」(根本理由)、B「Aの理由/声の力への実感」、C「声の力の具体的な機能」(直接理由)。Bについては、⑩段落二文目より「文字にもとづかない声の文化が優勢だった時代/声に出された言葉/肉体から力を備えた音として発出/物理的に触知しうるモノ/偉大な力として実感された」を拾いまとめる。
Cについては、⑩段落三文目以下から「人々を高揚させ/同調させ/集団的行いへと動員する/(定型の短い言葉を発することで)儀式は正当に完遂すると考えられた」を拾い、着地点「典礼や法手続きに不可欠」に接続するように「人知を越えて(A要素)/人々を結合させ/正当性(正統性)を付与するものと/信じられたから(A要素)」とまとめ、B要素からつなげて解答とした。
<GV解答例>
文字に基づかない声が優勢だった時代において、声に出た言葉は、肉体から力を備えた音として発出する、触知しうるモノとしての実感を伴いながら、人知を越えて人々を結合させ正統性を付与するものと信じられたから。(100)
<参考 S台解答例>
文字ではなく声による伝達が主流である時代には、人間が声に出した言葉が人びとに直接影響し、そこに偉大な力が宿っていると実感され、その言葉によってはじめて典礼や法手続きは正当に完遂されると考えられたから。(100)
<参考 K塾解答例>
声の文化が優勢な前近代ヨーロッパでは、声に出された言葉には超自然的な力が宿るとされ、それが人々を高揚させ、集団行為へと動員し、決まった短い言葉を実際に声に出すことで儀式は全うされると考えられたから。(99)
設問六 傍線部(5)「文字化された中世の文学作品にヴァリアントが無数にある」のはなぜか、本文に即して90字以内で説明せよ。
理由説明問題。「「文字化された中世の文学作品にヴァリアント(注:一つの作品でありながら、部分的に異なる表現をもつ本)が無数にある」のは、こうした理由による」と傍線部より続くわけだから、素直に「こうした」を具体化すればよい。
ポイントは2つ。A「テクストは生成途中の仮のもの/歌い朗誦する演者の声のみが、それに価値と権威を与える」、B「その声を介した文学は/物語や詩の構造を守るならば/即興的要素も排除されない(開かれた構造)」。Aが前提となり、直接的理由のBにつないで解答とした。
<GV解答例>
生成途中にあるテクストを歌い朗誦する演者の声こそが、それに価値と権威を与えるのであり、物語や詩の構造を守る限りにおいて、その声を介した文学は即興的要素にも開かれたものであったから。(90)
<参考 S台解答例>
テクストはつねに生成途中の仮のもので、歌い朗唱する演者の声のみが価値と権威を与えた中世の文学作品は、物語や詩の構造を守ってさえいれば、即興的要素も排除されないまま伝えられたから。(89)
<参考 K塾解答例>
声の超自然的な力を実感できた時代には、テクストはつねに仮のものとされ、演者がそれを朗誦する際に、物語や詩の構造さえ守れば、その都度その場で即興的要素を付け加えることができたから。(89)
沖縄県那覇市の大学受験予備校グレイトヴォヤージュ
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