〈本文理解〉

出典は正宗白鳥『入江のほとり』。大正四年の発表である。前書きに、「辰男は地方の旧家の三男で、成人した後も実家に残り、小学校の代用教員をしている。兄の栄一は東京で暮らしている」とある。以下、あらすじ(場面と心情)をたどる。便宜的に、いくつかのパートに分けておいた。

 

(帰省) 栄一は、俥夫の提灯を先に、突如に暗い土間へ入ってきた。家の者は、ぞろぞろ出てきて一ところに集まった。が、辰男一人は椅子から身動きもしなかった。英文に心を打込んでいた。縁談は、ろくに話し進まぬうちに立消えになった。彼れは二三日妄想に悩んだだけで、元の彼れに返って、テーブルに釘づけのようになっていられた。以前二三度英語雑誌へ投書したが、掲載されなかったので、今はそんな望みを絶って、自作の英文は絹糸で綴じた帳簿に綺麗に書留めておくに止めている。自分ながら文章は次第に巧みになっているような気がする。

 

(就寝) 妹と母とは、階下から夜具を運んで、次の室へ兄の寝床をのべた。間もなく栄一が上がってきたが、辰男の方をちょっと振返ったばかりで、次の室へ入って襖を締めた。…階下が寝静まってしばらくたって、栄一は部屋に漲った煙草の煙を外に出して、灯火も消して寝床についた。堅い寝床が身体に馴染まなくてますます寝づらかった。「辰はまだ寝ないのか。灯火が邪魔になっていけないな」。四年目で耳に触れた兄の声は、相変らず「尖っていた」(傍線部(1))。辰男はその声を聞くと同時に、ペンを筆筒に収めて、ランプも吹消した。

 

(山へ) 翌日は日曜なので、辰男は寝床の中で書物を読んでいた。栄一は早く起きて海岸を散歩してきたが、朝飯後に一時間ばかり読書すると、また外に出ようとしたが、ふと振返って、「辰、…山へ登ってみんか」と誘った。そして、二三歩辰男の居間に踏みこんで、テーブルの上に目を据えた。辰男は立ち上がりざま初めて兄の顔を熟視した。四年前よりも父の顔にいちじるしく似通っていた。兄が身体を屈めて、英作文を一二行見ている間に、辰男は帽子を被りトンビを着て直立していた。

 

(山頂) 栄一は冷々した山上の風に汗を乾かして爽やかな気持ちになると、今までの沈黙を破って、弟に向かっていろいろ話をしかけた。あちこちに見える島の名を訊いたり、村々のありさまを訊いたりしたが、はっきりした答えは得られなかった。辰男はまるで他郷を見わたしているようだった。天子の冠のような形をした小さい島が入江から真近い処にあるのに今初めて気づいた。彼れはかつてそこまでも行ったことがなかった。「あれが鍋島だ」とかえって兄に教えられたが、そう聞けば子供の時から聞馴れているのだった。「鍋よりも王冠によく似ている」と思って、冠島という課題で英文を作ろうと思いついた。目の下の墓地も、海を渡る鳥の群も、皆英文の課題としてのみ目に触れ心に映った。飛んでいる五六羽の鳥は鳶だか雁だか識別けられなかったが、「ブラックバード」と名づけただけで彼れは満足した。

 

(英語) 「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」 栄一はふと弟を顧みて訊いた。「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。「すぐには返事ができなかった」(傍線部(2))。「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのかい。英語はおもしろいのかい」 「おもしろうないこともない」 辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身おもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。「それよりゃ小学校教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいんじゃないか。三十近い年齢でそればっかりの月給じゃしかたがないね」 「…」
辰男はいやに侘しい気持ちになった。「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃで意味が通ってないよ。三年も五年もあんなことをやっているのは愚の極みだよ」 「…」 「お前はあれが他人に通用するとでも思っているのかい」 そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。「…」 辰男は黒ずんだ唇を堅く閉じていたが、目には涙が浮んだ。他人に教えるつもりで読んでいるのでも、他人に見せるために作っているのでもないし、正格でないことは承知しているが、全然無価値だとこの兄に極められると、つくづく情けなかった。

 

(墓地) 「さあ帰ろうか」 栄一は裾の埃を払って、同じ道を下った。墓地近くになって、のろのろ下りてくる弟を待合せて、妹の墓と祖母の墓とへ詣った。目が窪んで息の臭かった妹の死に際の醜い姿は、辰男の記憶にまざまざと刻まれていて、X子の墓と彫った石碑に対して追慕の感じは起らないで、棺の中で蛆に喰われている死骸の醜さが胸に浮かんだ。兄弟は朽葉を踏んで墓地を下った。「辰は家で許したら、学校へ入って真剣に英語の稽古をしようという気があるのかい」 栄一は前とは異って穏やかに話しかけた。が、「辰男は兄の言葉に甘えた快い返事はしようとはしなかった」(傍線部(33))。「別段学校へ入りたいということはありません」と、干乾びた切口上で答えた。「せめて、もう四年はやく決心して、強硬に親爺に説きつけたなら、…しかし、お前は今からじゃあまり遅すぎるね」。

 

(帰宅) 家に帰ると、辰男はほかに自分の置く処がないようにテーブルの前に腰を掛けたが、作りかけの文章に目を向けるのが厭な気がした。午過ぎになると、文典など読みだしたが、今までのようにかたわらに人なきがごとき態度ではいられなくて、兄の足音が聞こえると書物を脇へ片寄せた。

 

〈設問解説〉 
阪大の文学部の問題は第一問の評論、第二問の小説ともに、たっぷり書ける解答欄が設けてある。それを全部埋める必要はないが、今回は小説問題の長めの記述解答として参考になるような例を示そう。全四題とも120字、2文構成縛りで解答を作成した。

 

問一「尖っていた」(傍線部(1))は、兄弟の関係を表す上でどのような効果があるか、説明しなさい。(100~120字程度)

表現効果の説明問題。長い解答は、先に「おしり」を決め、それに収束するよう前提や状況を丁寧に説明し、解答の前部に置くとよい(考える順は「おしり」→「前提」/解答構成は「前提」→「おしり」)。
本文における兄弟の関係は、基本的に「不和・緊張関係」である。ならば、「兄の「尖った」口調が/兄弟の不和(緊張関係)を/(今後の展開を先取りする形で)印象づける(という効果がある)」と「おしり」を決める。
そこで兄弟の「緊張」関係だが、両者は対比的なキャラとして提示されている。兄は東京で実家から独立して暮らしを立てており、弟の英語のでたらめさを瞬時に見抜くように学がある。一方の弟は三十近い年齢で薄給、実家に寄生している身の上である()。そうした弟は、兄を父(旧家のパターナリスティックな存在)と重ね合わせ、畏れ劣等意識を抱いている、と見なせる()。だから、実際弟に対して高圧的にも振る舞う兄の声と言葉が、「余計に」刺をもって聞こえたのである。

 

<GV解答例>
兄の栄一は学もあり東京で暮らしを立てているのに対し、三十近い年齢にありながら薄給で実家に寄生している弟の辰男は、兄に畏れと劣等感を抱いている。弟を思う一方きつくあたる兄の言葉は、弟には余計に刺をもつように聞こえ、兄弟の不和を印象づけている。(120)

 

<参考 S台解答例>
辰男にとっての兄栄一の声を「尖っていた」と共感覚的な慣用表現である比喩で表しているのは、弟辰男に対する物言いが怒りっぽいものであることを意味し、弟に対して批判的で高圧的である兄と兄に屈従する弟との相変わらぬ関係を、具体的、感覚的に表現する効果がある。(125)

 

<参考 K塾解答例>
数年ぶりに聞く兄の刺々しい響きをもつ声に身をひそめる弟の姿を描くことで、都会に出て自立した生活を営む長兄と実家で不甲斐なく生きる三男との、互いの考え方を理解しあえず擦れ違う関係を、端的に示すという効果。(101)

 

問二「すぐには返事できなかった」(傍線部(2))のはなぜか、説明しなさい。(100~120字程度)

理由説明問題。「心情」を問う。先に「おしり」を決める。根拠の一つは、傍線直前「「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた」。つまり、「英文をつくる」という自分の世界に入っていた辰男は、兄の質問にはっと驚いた。しかも「英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的はあるのかい」というエスパーみたいな問いかけだったので、二重に虚をつかれた。

もう一つは、その質問内容に答えようもなかったから。そもそも、辰男に英語を学ぶ、少なくとも合理的な目的は見当たらないのだから。この二点で理由を構成する。後は、そこに至る状況()、特に辰男が「一人の世界」に沈潜する過程を丁寧に説明して、「状況→おしり(直接理由)」という形で解答する。

 

<GV解答例>
山の頂上近くから見える入江の景色は地元でありながら見慣れぬ様で、辰男はその情景を目下の関心事である英文にしようと一人の世界にひたり言葉を思案した。その矢先、兄に英語を勉強する目的を問われ、虚をつかれた上しかるべき目的も思いつかなかったから。(120)

 

<参考 S台解答例>
いつものように特に目的もなく眼前の様子を英文に表そうと黙想していた辰男は、その内面を知るはずもない兄から不意に英語学習の目的を問われて虚を衝かれ、動揺したうえ、自身を顧みても答えるべき明確な目的が見当たらなかったから。(109)

 

<参考 K塾解答例>
山登りをしても、風景を眺めるより、いつものように自分だけの英語の世界に没頭していたので、いきなり英語を学ぶ目的を問いかける兄の言葉によって現実に引き戻され、その答えに窮し当惑しているから。(94)

 

問三「辰男は兄の言葉に甘えた快い返事はしようとはしなかった」(傍線部(3))における辰男の心情を説明しなさい。(100~120字程度)

心情説明問題。先に「おしり」を決める。根拠は傍線前後、「「…学校へ入って…という気があるのかい」栄一は前とは異って穏やかに話しかけた。が、(傍線部)。「別段学校へ入りたいということはありません」と、干乾びた切口上で答えた」。つまり、パートからの一転しての兄の気遣いに、辰男は感情を込めずに堅苦しい(切口上)答え方をしている。辰男は、兄に対して心を閉ざし、その奥にパートの兄の言動に起因した強い不信を感じているのである。
そこでパートに戻り、その感情の原因を整理する。兄は、弟の英文のでたらめさや無意味さを「愚の極」とまで、鋭い語勢で指摘する。もちろん兄からすると上位者としての務めであり、ある種の叱咤なのかもしれないが、辰男からすると「罵り嘲る」ようで「全然無価値だと」されたと感じ、涙を浮かべる。その後山を降りる途中、妹の墓によるのだが、その死に際の醜さを思い、追慕の情も起こらない。ここもパートからの一連の過程と見るならば、辰男の心が荒み、死んだ妹そして兄を嫌悪し、また妹に見た醜さを自分に重ねている面もあるだろう。

ここで注意すべきなのは、問四で再び考察することだが、兄に「英文を書くこと」を完全に否定されたことは、ただの特技や趣向を否定されたという次元ではなく、辰男の「存在(実存)」の否定に関わるものだ、ということだ。辰男は、憤りを露にする性質ではないし、兄の気遣いも理解できなくはないだろうが、そうした理屈を越えた兄へ(他者へ)の不信を深めているのである。「英文の否定→実存の否定→兄への不信(おしり)」とまとめる。

 

<GV解答例>
他人に見せるほどのものでないことは自覚しながら自分なりに上達の手応えを感じていた英文の力量を、兄に全否定され罵り嘲られたような屈辱を覚えた。それは辰男の実存の否定に相当するもので、一転して穏やかな兄の気遣いにも心を閉ざし、不信を深めている。(120)

 

<参考 S台解答例>
辰男の英語に対する兄の評価や合理的な意見は正論ではあるが、自分の努力を無価値だと罵り嘲けられた侘しさや情けなさが募り、先程と異なる穏やかな口調で本格的な英語学習への志望を兄に問いかけられても、素直になれず、依然として反感を覚えたから。(117)

 

<参考 K塾解答例>
専門の指導者について英語を学ぶ意欲はあるのかと問う兄の配慮は有り難いものの、兄への反発と孤独だが静かな日常へのこだわりもあって、無愛想に提案を却け、自らの矜持をなんとか保とうとする心情。(93)

 

問四 英文を書くことは、辰男にとってどのような意味があるのか、わかりやすく説明しなさい。(100~120字程度)

内容説明問題。「英文を書く」という具体的な行為の象徴する意味を答える問題である。設問の形式にそって、「A~辰男にとって/英文を書くことは~Bを意味する」という解答の構文になるが、思考の順序としては、ここも「おしり」から「B→A」と考察する。

Bについては、最終パート「辰男はほかに自分の置く処がないようにテーブルの前に腰をかけたが」「今までのようにかたわらに人なきがごとき態度で」の記述が参考になる。ここは兄に「英文を書くこと」を全否定された後の部分で、それでも惰性のように(英文を書く)テーブルに向かってしまうというところだが、逆に言うと辰男は、「英文を書くこと」に自己の居場所を見つけ、そこで現実との防壁を築き、自己を保ち確認していたのである。それはパートでの兄とのやり取りでも分かるように、学び身を立てる手段でも、娯楽や趣味の対象でもなく(「おもしろいともおもしろくないとも感じたことはない」)、もっと身に寄り添う切実な営みである。

こうしたBの理解に合わせて、Aで辰男の現実や他者との距離感を説明すればよい。まず前提として、辰男は三十近い年齢にありながら実家に寄生している。その居心地の悪さからか家族と(さえ)親密に接していない。特に父や兄との関係は良好でない。また、学校で英文を学んだり、正教員の資格を取るなどして社会的に上昇しようとする意欲が希薄である。そうした辰男にとって「英文」は、その実存に関わるものであり、栄一による否定は何よりも耐え難い仕打ちだったのである。

 

<GV解答例>
成人しても実家に寄生する辰男は、内向的で社会的向上を望まず、家族にも親密な情を抱けずにいる。その辰男にとって英文を書くことは、学び身を立てる手段でも娯楽や趣味の対象でもなく、ただ現実から逃避し自己を保ち確認する唯一の営みとしての意味をもつ。(120)

 

<参考 S台解答例>
三十近い年齢になっても独身のまま実家にいて、小学校の代用教員をしながら、無目的に日々を送る辰男にとって、英文を作っても、その英文は意味も通らず、現実生活には何の役にも立たず、深い興味があるわけでもないが、他事を閑却して没頭できるという意味がある。 (123)

 

<参考 K塾解答例>
将来への準備でも自己表現でもなく、うだつのあがらぬ三男坊として冷たく遇される日常から逃避して、たとえ我流であっても上達が認められ表現の工夫に夢中になれるので、自らを慰め支える行為となっていた。(96)

 

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